第43話 翌朝二人は自他の境界線が溶け出す恐怖に直面する。
翌朝、午前十時。
チェックアウトの時間を知らせるフロントからの電話で、神悟は目を覚ました。
「……信じられない。こんなに深く眠ったのは何年ぶりだ」
神悟はベッドから身を起こし、自分の身体を不思議そうに見下ろした。
五十代特有の関節の痛みも、慢性的な疲労感も、嘘のように消え去っている。だが、それ以上に奇妙な感覚があった。
腕の中に、柔らかくて温かい「小さな塊」を抱きしめているような、生々しい感触が残っているのだ。
壁の向こう側から、ドクン、と穏やかな鼓動が伝わってくる。
それは間違いなく、隣の部屋で息子の拓也を抱きしめて眠っていた、千夏の感覚だった。
一時間後。
身支度を整えた三人は、ホテルの近くにあるファミリーレストランの席に向かい合って座っていた。
拓也は嬉しそうにパンケーキを頬張っている。
「……なぁ、ジジイ」
コーヒーカップを両手で包み込みながら、千夏が声を潜めて言った。その顔は、十分な休息を取ったはずなのに、どこか青ざめている。
「あんた、今朝起きた時……自分が『誰』なのか、一瞬分からなくならなかったか?」
神悟は息を呑み、ゆっくりと頷いた。
「ええ。目が覚めた瞬間、僕の頭の中に『拓也の寝顔が愛おしい』という感情が、まるで自分の本来の感情であるかのように溢れていました。……恐ろしいほど自然に」
「私もだ」
千夏は唇を噛んだ。
「私の頭の中に、三十年間家族を養ってきた重圧から解放されたっていう『中年男の安堵感』が流れ込んできた。痛みを共有してる時は、はっきりと『他人の痛みだ』って反発できた。でも……」
「快楽や安らぎは、無意識のうちに受け入れてしまう」
神悟が千夏の言葉を引き継ぐ。
「このまま心地よい感情まで共有し続ければ、僕たちの『自我』の境界線は溶けてなくなる。僕が君になり、君が僕になる……精神が完全に混ざり合ってしまう」
それは、死よりも恐ろしい「自己の喪失」だった。
宇宙のバグは、二人をただの運命共同体で終わらせるつもりはない。
同じ濃度の絶望を持つ二つの魂を、完全に「一つのバグ」として処理し、統合しようとしているのだ。
「……冗談じゃない。私は私だ。拓也の母親で、千夏っていう一人の人間だ」
千夏がギリッと歯ぎしりをする。
「どうする。この不具合、どうにかして止められないのか?」
「……一つだけ、仮説があります」
神悟は冷めたコーヒーを見つめながら、静かに言った。
「僕たちの繋がりが『絶望の濃度の一致』から始まったのなら……その濃度を意図的に『ずらす』ことができれば、このバグを強制終了させられるかもしれない」
絶望の濃度を、ずらす。
それはつまり、どちらか一方が、もう一方よりも「さらに深い地獄」に落ちるか、あるいは「決定的な幸福」を手に入れるか。
どちらにせよ、二人が共に穏やかな明日を迎える道は、すでに絶たれていた。
続く




