第41話 眠る我が子を背負い家なき三人の新しい夜明けが始まる
夜十時。
神悟の軽自動車は、千夏が住む古い団地の前に音もなく停まった。
「……急いで荷物をまとめる。少し待っててくれ」
「手伝いましょうか?」
「いや、いい。あそこはもう、私の家じゃないからな。長居は無用だ」
千夏は足早に車を降り、湿った外階段を上っていった。
車内に残された神悟は、冷え切った両手に息を吹きかけながら、静かに目を閉じた。
ドクン、ドクン。
見えない繋がりを通して、千夏の鼓動が伝わってくる。
今、千夏が部屋の扉を開けた。息子の拓也が、薄い布団の中で丸まって寝ているのを見つけたのだろう。
千夏の胸の奥から、張り詰めていた糸がふっと緩むような、深く温かい感情が流れ込んできた。
(……ああ。これが、親の愛情というものか)
神悟は、自分自身の胸に手を当てた。
三十年間、家族のために血を吐く思いで働いてきた。だが、妻や義母から、こんな温かい感情を向けられたことは一度もなかった。
千夏が抱く「我が子への無償の愛」が、空っぽになった神悟の心に、じんわりと染み渡っていく。
三十分後。
両手に大きなボストンバッグを提げ、拓也(九歳)を引き連れた千夏が、階段を降りてきた。
神悟は慌てて車を降り、荷物を受け取る。
「……それだけですか?」
「ああ。服と、最低限の生活用品だけだ。あの男が買ったものなんか、一ミリも触りたくねえ」
千夏は後部シートに拓也を座らせ、自分もその隣に乗り込んだ。
「母ちゃん……?」
拓也が目を擦りながら、声を出した。
「ねぇ……? このおじちゃん。誰……?」
運転席の神悟を見て、拓也が首を傾げる。
千夏は拓也の頭を優しく撫でながら、ニッと笑った。
「母ちゃんの、戦友だ。……拓也、今から少しだけ、長い旅行に行くぞ」
「りょこう……? ほんと?」
「ああ。とりあえず今日は、温かいお風呂があるホテルに行こうな」
拓也は「やったぁ」と小さく呟き、再び千夏の膝枕で寝息を立て始めた。
「……出しましょうか?」
「頼む、ジジイ」
軽自動車が、夜の静寂を切り裂いて走り出す。
向かう先は、街道沿いにある安いビジネスホテルだ。
バックミラー越しに、神悟は後部座席を見た。
息子の寝顔を見つめる千夏の横顔は、深夜の商店で見下し合った時の「生気のない泥水のような顔」ではなかった。
すべてを失って、住む家さえなくなったというのに、その顔には不思議なほどの力強さと、穏やかな光が宿っている。
そして神悟もまた、帰り道を失った孤独な男のはずなのに、胸の奥が不思議と温かかった。
「……千夏さん」
「ん?」
「絶望の濃度が一致して繋がった、ただの不具合だと言いましたが……」
神悟は、前を見たまま静かに微笑んだ。
「君の息子さんを想う気持ちが……今、僕の心も温めてくれています」
千夏は少し驚いたように目を見開き、やがて照れ隠しのように窓の外へ顔を向けた。
「……気持ち悪いこと言うなよ、ジジイ。腹が減ってるだけだろ」
「ははっ、そうかもしれませんね」
空が、少しだけ白み始めていた。
すべてを失った五十代の男と、三十代の女、そして一人の少年。
血の繋がりなど一切ない「家なき三人」を乗せた小さな車は、冷たい夜明けの国道を、確かな熱を持って走り続けていた。
続く




