第40話 絶望の濃度が完全に一致した瞬間世界は残酷なバグを起こした
大衆食堂を出た後、神悟の軽自動車は、当てもなく深夜の国道を走っていた。
助手席の千夏は、窓の外を流れる暗い景色をぼんやりと眺めている。
帰る場所を失った二人の間に、不思議な静寂が落ちていた。
「……なぁ、ジジイ」
不意に、千夏が口を開いた。
「私たちが初めて同じ空間にいたのって、イエローマートだったよな?」
「……ええ。僕が、見切り品の弁当を一つだけレジに置いた夜ですね」
神悟は、前を見たまま自嘲気味に笑った。
二人の脳裏に、同じ記憶が鮮明に蘇る。
あれは、一ヶ月前の深夜。ひどく冷え込んだ夜だった。
深夜二時の店内。客は一人もいなかった。
千夏は、夫の暴力的な言葉を浴びた後、逃げるように夜の労働に入っていた。心の中は真っ黒に濁り、陳列棚の蛍光灯の光すら疎ましかった。
(……死にたい。なんで私だけ、こんな底辺を這いつくばって生きてるんだ)
そこへ、一人のくたびれた中年男が入ってきた。神悟だ。
神悟もまた、義母の容赦ない嫌味で自尊心を粉々に砕かれ、家に帰る気力もなく、ふらふらと店に立ち寄っただけだった。
(……消えたい。僕の三十年間の人生は、ただのゴミ屑じゃないか)
神悟は、一番安い見切り品の弁当を一つだけレジに置いた。
二人は、すれ違う。いや、出会ってすらいない。
いらっしゃいませの言葉もない。ありがとうの一つも言わない。
だが、その時、二人の視線がほんの一瞬だけ交差した。
互いに、相手の目の中に「自分と同じ、生気のない泥水のような色」を見た。
千夏は心の中で吐き捨てた。
(なんだこのジジイ……惨めで、負け犬の匂いがする。絶対に、あんなゴミみたいにはなりたくない)
神悟も、冷たい目で見下した。
(なんて下品で、余裕のない女だ。これだから底辺は。……あんな風にだけは、なりたくない)
互いに対する、剥き出しの嫌悪感。
交わらないはずの、最悪の他人同士。
だが、宇宙の記録は残酷だった。
「あんな風になりたくない」と軽蔑し合った二人の、心の奥底に沈殿していた「絶望の濃度」。
それが、ただの一滴の狂いもなく、完全に一致してしまったのだ。
奇跡ではない。
これは、愛の物語ではない。恋でも、不倫でも、再生の物語ですらない。
ただ、宇宙の膨大な記録の中で、同じ空間に、まったく同じ濃度の絶望が存在してしまったことによる、世界の不具合。
世界が計算を間違え、二つの「ゴミ屑のような命」を、一つのものとして誤認識してしまった瞬間だった。
――軽自動車の車内。
「……思い出したか?」
千夏が、ため息混じりに笑った。
「私たちはただ、あのレジ越しに、ゲロ吐きそうなくらいお互いを軽蔑し合ってたんだ」
「ええ。最低の他人同士です。……でも、だからこそ繋がった」
神悟も、ハンドルを握りながら皮肉っぽく口角を上げた。
「美しい奇跡なんかじゃない。僕たちは、世界に見捨てられた者同士の、ただの『不具合』だ」
すべてを失った今だからこそ、その残酷な真実が、不思議と二人の胸の奥にすっと落ちていった。
泥水をすすりながら、ただ明日を生き延びるためだけに、この呪われた繋がりを利用してやる。
深夜の国道を走る車内で、二人の顔には、絶望を通り越した、悪びれたような不敵な笑みが浮かんでいた。
続く




