第39話 全てを失った二人が深夜の大衆食堂で静かに祝杯をあげる夜
夜の帳が下りた国道沿い。
神悟の軽自動車は、古びた大衆食堂の駐車場に停まっていた。
離婚届を叩きつけてきた神悟と、奪われた百万円を取り返した千夏。
三十年の鎖を断ち切るという大きな戦いを終えた二人は、色あせた赤提灯の下で、向かい合って湯気の立つ肉うどんをすすっていた。
「……美味いですね」
神悟が、つゆを飲み干して深く息を吐く。
「ああ、五臓六腑に染み渡るな」
千夏も豪快に器を空け、口元を手の甲で拭った。
だが、現実は決して甘くない。
神悟は三十年住んだ家を自分の意志で捨てた。
千夏も、あのろくでなしの夫がいつ戻るか分からない共同住宅には、もう息子を連れて帰る気はない。
つまり、二人とも今夜から「帰る場所」がないのだ。
「千夏さんは、これからどうするんですか?」
「とりあえず、拓也を迎えに行って、安い宿にでも転がり込むさ。金はあるし、しばらくは保つ。……あんたこそ、どうすんだよ」
「僕は、会社の仮眠室か、この車で寝泊まりします。一人になれば気楽なもんですよ」
強がる二人の間に、少しだけ寂しい風が吹き抜けた。
すべてを捨てて自由になった代償は、あまりにも唐突な「孤独」だった。
その時だ。
ドクン。
神悟の胸の奥で、小さく、しかし確かな鼓動が鳴った。
それは、目の前に座る千夏の心臓の音だった。
「……千夏さん」
「ああ、分かってる」
千夏もまた、自分の胸に手を当てていた。
今までは、ぎっくり腰の激痛や、強烈な怒り、あるいは極限の便意といった「強い刺激」がなければ、この回線は繋がらなかった。
だが、今は違う。
穏やかな食堂の空気の中で、互いの体温や、静かな鼓動の波が、まるで一つの身体であるかのように、ごく自然に共有されているのだ。
「……もしかして、私たちのこの繋がり、少し変わってきてないか?」
千夏が怪訝な顔で言う。
「ええ。互いの心の障壁がなくなったせいか……なんだか、とても静かで、心地いいくらいです」
極限の重圧から解放された二人の身体は、繋がりを拒絶するどころか、互いの存在をより深く受け入れ始めていた。
自分が一人ではないという安心感。
だが、それは同時に「もう互いなしでは生きられなくなる」という、恐ろしい予兆でもあった。
「……明日、少し調べてみましょう。僕たちがどうして、あの日、あの瞬間に繋がってしまったのか」
神悟の言葉に、千夏も力強く頷いた。
「ああ。このままじゃ、あんたがまた変なものを食べて腹を下すたびに、私の命まで危なくなるからな」
冗談めかして笑う千夏。
二人は空になった器を重ね、席を立った。
帰る家を失った五十代の男と三十代の女。
だが、その背中は決して小さくない。
孤独な二人の、本当の意味での「二人三脚」の新しい一日が始まろうとしていた。
続く




