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第38話 冷たい食卓と三十年分の決別


 遊技場から無事に百万円を取り返した二人は、神悟の軽自動車で、そのまま隣町にある立派な一軒家へと向かっていた。


 神悟の妻・美津子の実家だ。


「……僕一人で大丈夫ですよ、千夏さん。君は疲れているだろうし」  


 運転席の神悟が遠慮がちに言うと、助手席の千夏は腕を組んだまま鼻で笑った。


「馬鹿言うな。さっき私の戦いに付き合わせたんだ。最後まで見届けてやるよ。それに、あんたがまたあの姑の嫌味で心を病んだら、繋がりを通してこっちの腹の具合まで悪くなるからな」


「……すみません、心強いです」


 神悟は小さく笑い、車の発動機を止めた。  


 目の前には、高い塀に囲まれた義母の家がある。いつもなら、この門を見るだけで胃が縮み上がり、冷や汗が噴き出していた。  


 だが、今は違う。  


 隣を歩く千夏の「絶対に退かない」という強い意志が、見えない繋がりを通して、神悟の腹の底にどっしりと根を張っていた。


 玄関の呼び鈴を鳴らす。  


 少しして、不機嫌そうな顔をした妻の美津子が扉を開けた。


「……何の用? 離婚届なら郵送してって言ったはずだけど」


 美津子は神悟の顔を見るなり冷たく言い放ち、その後ろに立つ千夏を見て眉をひそめた。


「ちょっと、その後ろの女、誰よ。……まさか、浮気相手?」


「誰が浮気相手だ、この……」  


 千夏が凄んで前に出ようとした瞬間、神悟がスッと右手を上げてそれを制した。  


 そして、静かに口を開く。


「……中で、お義母さんも交えて少しだけ話がしたい。五分で終わる」


 その低く、凄みのある声に、美津子は一瞬たじろぎ、無言で道を空けた。


 通された客間には、立派な木の食卓があり、上座には義母の芳子が座っていた。


「あら、神悟さん。とうとう判を押す気になったの? それにしても、ずいぶんと柄の悪い連れがいること……」


 芳子の毒のある言葉が空気を刺す。  


 神悟は食卓の前に立つと、懐から緑色の紙――離婚届を静かに置いた。


 そこにはすでに、神悟の署名と捺印がされている。


「……三十年間、お世話になりました」  


 神悟は深く一礼した。


「ふん。やっと自分の甲斐性のなさを認めたのね。美津子にはもっと相応しい相手がいたのに、あなたみたいな運送屋の平社員に捕まって、本当に可哀想だったわ」  


 芳子が勝ち誇ったように鼻で笑う。


 千夏のこめかみに青筋が浮かんだ。


(このクソババア、叩き斬ってやる……!)  


 千夏の激しい怒りが、神悟の胸に流れ込む。  


 だが、神悟はその怒りを「熱」に変えて、自分の背筋をピンと伸ばした。


「甲斐性がなかったことは、認めます」  


 神悟は、芳子と美津子を真っ直ぐに見据えた。


「ですが、僕は三十年間、雨の日も雪の日も、一度も仕事を休んだことはありません。泥だらけになって、重い荷物を運んで、あなたたちがこの立派な家で食べる寿司の代金を、不器用なりに稼いできました」


 神悟の声は、決して声を荒らげているわけではない。  


 だが、その声には、三十年間の血の滲むような労働の重みと、男としての決して譲れない誇りが宿っていた。


「僕の稼ぎを嘲笑うのは構いません。ですが、僕が流してきた『汗』を馬鹿にする権利は、あなたたちにはない。……今まで、ありがとうございました。」


 神悟はそれだけ言うと、自分の左手から結婚指輪を外し、離婚届の上にことりと置いた。  


 鈍い銀色の音が、静まり返った客間に響く。  


 芳子も美津子も、普段は決して反抗しなかった神悟の、あまりにも堂々とした姿に圧倒され、一言も言い返すことができなかった。


「……行くぞ、相棒」


 神悟は振り返り、呆然としている千夏に声をかけた。


「あ、ああ……」


 二人が玄関を出て、門をくぐり抜けた時。  


 夜の冷たい風が、神悟の火照った顔を撫でた。


「……ふぅっ」  


 神悟は大きく息を吐き出し、夜空を見上げた。  


 三十年間、背中にのしかかっていた重い鎖が、音を立てて砕け散った気がした。家も、家族も、貯金も失った。  


 だが、神悟の顔は、これまでにないほど晴れやかだった。


「……言えた。千夏さん、僕、言えましたよ」  


 神悟が震える声で笑うと、千夏は神悟の背中を、バシン!と力強く叩いた。


「痛ぇっ!?」


「当たり前だ、痛みを共有してんだから私にも同じ痛みが来るんだよ! ……でも、よくやった。最高に男らしかったぞ、ジジイ」


 千夏もまた、自分の背中をさすりながら、ニカッと笑った。


 すべてを失った帰り道。  


 だが、五十代の男と三十代の女の足取りは、羽が生えたように軽かった。


 彼らは今、本当の意味で「自分の人生」を取り戻したのだ。




続く


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