第37話 喧騒の遊技場と二人の完璧な同調
埼玉県の県境にある、巨大な遊技場。
駐車場に神悟の軽自動車が滑り込むと、そこには連絡通り、健介の乗る銀色の乗用車が停まっていた。
「……行くぞ、ジジイ」
助手席から降りた千夏の声は、氷のように冷たく、そして静かに燃えていた。
「ああ。……僕が後ろに控えています」
神悟も力強く頷き、千夏の背中を追って遊技場の自動扉をくぐった。
店内は、鼓膜をつんざくような電子音と、金属の玉が弾ける轟音に包まれていた。
タバコの煙が立ち込める通路を、千夏は獲物を探す獣のような目で進んでいく。
そして、三列目の奥。
千夏の足がピタリと止まった。
その視線の先には、足元に玉の詰まった箱を積み上げ、だらしなく椅子に寄りかかって遊技機を叩いている男の背中があった。
夫の、健介だ。
千夏の全身の血が沸騰するのを感じる。
息子の進学のために、血の滲むような思いで貯めた百万円。それを奪って、こんな場所でヘラヘラと浪費している男。
(……許さねえ)
ドクンッ。
千夏の強烈な「殺意」に似た怒りが、見えない繋がりを通して、後ろを歩く神悟の心臓に流れ込んだ。
神悟は息を呑んだ。痛いほどの怒り。だが、不思議と恐怖はない。
神悟の身体の底から、千夏を守らなければという、かつてない闘争本能が湧き上がってきた。
千夏は無言で健介の背後に立つと、その肩を思い切り掴んで、椅子ごと強引に振り向かせた。
「……あ?」
健介が面倒くさそうに顔を上げる。
「なんだよ、……お前……千夏!? なんでこんなとこに……!」
「鞄を出せ」
千夏は地の底から響くような声で言った。
「拓也の百万円だ。今すぐここに出せ。一円でも減ってたら、この場でその腕をへし折る」
健介は一瞬怯んだが、すぐに周囲の客の目を気にして、虚勢を張った。
「ふざけんな! 俺が稼いだ金だろ! 誰のおかげでメシが食えてると思って……ってか、なんだその後ろの薄汚いオッサンは。お前の間男かよ!」
健介は神悟を指さし、下品に嘲笑った。
その言葉が、千夏の逆鱗に触れた。
「……てめぇ、神悟さんを馬鹿にすんじゃねえ!!」
千夏が拳を握りしめた瞬間。
「うるせえ女だな!!」
逆上した健介が、椅子から立ち上がりながら、千夏の顔面に向かって力任せの平手打ちをしようとした瞬間。
男の全力の一撃。まともに食らえば無事では済まない。
だが、その手が千夏の頬に届くことはなかった。
ガシィッ!!
空中で、健介の手首が完全に止められていた。
神悟の右手と、千夏の左手が、まったく同じ動きで、まったく同時に健介の腕を掴み取っていたのだ。
「……なっ!?」
健介が驚愕に目を見開く。
神悟と千夏は、示し合わせたわけではない。
だが、互いの「危険を察知する感覚」が繋がりを通して完全に同調していた。千夏が防ごうとした瞬間、神悟の身体も同じ防衛本能で動いたのだ。
二人の力が合わさった万力のような握力に、健介は身動き一つとれない。
「痛ぇっ! 離せ、このジジイ……!」
健介が神悟を睨みつける。
しかし、今の神悟は、妻に頭を下げていた頃の冴えない男ではなかった。
千夏の怒りを受け取り、運送屋の猛者たちを従えた「狂犬」の静かな凄みが、その目に宿っていた。
「……彼女に、二度と触れるな」
神悟の低く冷たい声と、一切の感情を排した無機質な瞳。
それは、本物の修羅場をくぐり抜けてきた男にしか出せない圧力だった(実際にはただ同調の力で感覚が麻痺しているだけなのだが)
「ヒッ……!」
健介の顔から血の気が引いた。完全に震え上がっている。
「……鞄、もらうぞ」
千夏は健介の腕を乱暴に突き放すと、足元にあった黒い鞄を奪い取り、中身を確認した。
茶色い封筒。中には分厚い札束が、そっくりそのまま残っていた。まだ手を付けていなかったのだ。
「……命拾いしたな、外道」
千夏は封筒を上着の懐にねじ込むと、健介を見下ろした。
「家に帰ってきたら、包丁で刺す。……二度と私たちの前に顔を出すな」
へたり込む健介を残し、二人はきびきびとした足取りで遊技場を後にした。
外に出ると、夕日が傾きかけていた。
車に乗り込んだ瞬間、千夏は大きく息を吐き出し、座席に深く沈み込んだ。
「……取り返した。全部、取り返したぞ……!」
千夏の両手は、微かに震えていた。
恐怖からではない。安堵と、自分自身の力で運命を切り開いた達成感だ。
「完璧な連携でしたね」
神悟も、ハンドルを握りながら静かに微笑んだ。
「ああ…あんた、意外と腕力あるじゃねえか。助かったよ、相棒」
二人の間に、言葉以上の確かな絆が結ばれた瞬間だった。
だが、安堵も束の間。
千夏の戦いが終わった今、次はいよいよ神悟の「終わってしまった家」の清算が待っていた。
続く




