第36話 狂犬の静かなる号令と、関東一円を覆う男たちの監視網
翌朝、午前五時。
まだ薄暗い『轟運送』の営業所に、伊集院神悟が姿を現した。
出勤前の運転手たちがタバコを吹かしていた休憩所は、神悟が入ってきた瞬間、水を打ったように静まり返った。
皆が一斉に目を伏せ、道を開ける。
先日の朝礼で所長を「暗殺拳」で沈めた男。誰もが関わり合いを恐れていた。
神悟は無言のまま、壁の連絡掲示板に向かって歩いた。
そして、一枚の紙を画鋲で乱暴に突き刺した。
それは、早乙女千夏から送られてきた、夫・健介の車の写真と車の登録番号だった。銀色の、特徴のない古い乗用車。
「……皆さんに、少し手伝ってほしいことがあります」
神悟が低く、押し殺したような声で言った。
本当はただ緊張しているだけなのだが、周りの運転手たちには「怒気を孕んだ凄み」にしか聞こえない。
「この車を探しています。乗っている男は、僕の大切な……知り合いから、大金を奪って逃げた外道です」
神悟はゆっくりと振り返り、輸送車両を担う猛者たちを見渡した。
「警察は動きません。だから、僕が自分の手で始末をつける」
「ひっ、」と誰かが短く息を呑む音がした。
(始末をつけるって、まさか……殺る気か!?)
運転手たちの顔が青ざめる。
「関東一円、どこへ逃げようと、皆さんの目なら見つけられるはずだ」
神悟は深く頭を下げた。
「見つけた方には、僕のなけなしの貯金から、報奨金を出します。……どうか、力を貸してください」
沈黙が流れた。
やがて、一番の古株である白髪交じりの運転手が、タバコを灰皿に押し付けて立ち上がった。
「……おいおい、伊集院。水臭いこと言うなよ」
古株の男が、掲示板の写真を携帯電話の撮影機能でカシャリと撮った。
「報奨金なんかいらねえよ。俺たち、毎日何百台の車を見てると思ってんだ。……逃げ切れるわけがねえ」
「その通りだ!」
若い運転手も後に続く。
「伊集院さんがそこまで言うなら、絶対に探し出してやりますよ! だから……あの、俺たちのことは殴らないでくださいね!」
彼らは恐れていたのもあるが、同時に「大金を奪って逃げた男」に対する純粋な義憤にも駆られていた。
朝六時。数十台の貨物車が、地響きを立てて営業所を出発していく。
関東の主要幹線道路に、轟運送の誇る「包囲網」が敷かれた瞬間だった。
――同日、午後三時。
早乙女千夏は、イエローマートで、上の空のまま品出しをしていた。
怒りと不安で夜も眠れなかった。だが、不思議と心臓の鼓動は落ち着いている。
見えない繋がりを通して、神悟の「静かなる闘志」と「確かな希望」が伝わってくるからだ。
(……あのジジイ、本当にやってくれてるんだな)
千夏が段ボールを潰していたその時、エプロンのポケットで携帯電話が震えた。
神悟からの短い伝言だった。
『見つけました』
千夏の心臓が大きく跳ねた。
『埼玉県の県境にある、大型の遊技場(パチンコ店)の駐車場です。うちの会社の運転手が、車から降りていく男の姿も確認しました。今も店内で打っているそうです』
「……でかした」
千夏は震える指で返信を打った。
「すぐに行く。あんたはどうする?」
『早退の届け出は出しました。……今から迎えに行きます。逃がしませんよ』
千夏は携帯電話を握りしめ、顔を上げた。
盗まれた息子のための百万円。そして、これまでの虐げられてきた日々。
すべてを精算する時が来た。
千夏は店長に向かって、今までにないほど凄みのある声で叫んだ。
「店長! 私、今日でここ辞めます!」
「……ええ―っ!?」
エプロンを脱ぎ捨て、千夏は店の裏口から外へ飛び出した。
待ち合わせの場所には、すでに使い古された神悟の軽自動車が、静かにエンジン音を響かせて停まっていた。
運転席の神悟と目が合う。
二人は無言で頷き合い、決戦の地へ向けて車を走らせた。
続く




