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第34話 二人に忍び寄る家庭崩壊の足音


 夕暮れ時。


 伊集院神悟は、配送用の大型貨物車を営業所に戻し、ほうほうの体で高島平の団地へ帰ってきた。


 あの激辛香辛料による「腹部の反乱」は、千夏との見えない絆(きずな)による防御陣形でなんとか乗り切った。だが、身体の疲労は計り知れない。


(……早く横になりたい。温かいお茶でも飲んで、ただ眠りたい)


 重い鉄の扉を開け、玄関に入る。


 だが、家の中の空気は、冬の夜道よりも冷え切っていた。


 洋間の明かりは消えており、奥の和室にだけ薄暗い電灯が灯っている。


「……美津子? 帰ったよ」


 声をかけても返事はない。


 神悟が和室を覗き込むと、妻の美津子が、正座をしたままじっと下を向いていた。


 その目の前の畳の上には、見慣れない一枚の緑色の紙が置かれている。


「……これ、書いておいたから」


 美津子の声は、ひどく乾いていた。


 神悟の視線が、その紙に落ちる。




 『離婚届』


 妻の欄には、すでに美津子の署名と捺印(なついん)が済んでいた。


「……え?」


 神悟は息を呑んだ。


 冷え切った夫婦関係とはいえ、定年まではこのままやり過ごすものだと、勝手に思い込んでいた。


「お母さんがね、もうあんな不気味な男とは別れなさいって。……私も、限界なの。あなたの顔色をうかがって、安月給で節約ばかりの生活は、もう嫌」


 美津子は一度も神悟の目を見なかった。




 ――同じ頃。


 黄色い看板の小売店で働き口の時間を終えた早乙女千夏も、古い共同住宅の自室の扉を開けていた。


「拓也、帰ったよ……」


 靴を脱ぎながら声をかけるが、息子の出迎えはない。


 奥の部屋に行くと、拓也はすでに毛布にくるまって寝息を立てていた。


 その枕元に、夫の健介が書き殴ったような短い手紙があった。


 千夏は嫌な予感がして、その紙を手に取る。


『当分帰らない。金は少しもらう。探すな』


 千夏は慌てて、戸棚の奥に隠してあった預金通帳を開いた。


 息子の進学のために、毎日小銭を切り詰めて貯めてきた、なけなしの百万円。


 その残高が、「0円」になっていた。


「クッソ……あ、の……外道が……!!」


 千夏の全身の血が逆流した。


 怒りではない。目の前が真っ暗になるような、純粋な絶望と恐怖。


 明日のご飯をどうすればいいのか。家賃は。拓也の学費は。


 ドクンッ。




 その時、神悟の胸の奥底が、氷のように冷たくなった。


 妻から突きつけられた離婚届の衝撃に重なるように、まったく別の「底知れない不安と絶望」が、見えない回線を通じて流れ込んできたのだ。


(……千夏さん……?)


 千夏もまた、空になった通帳を握りしめながら、心臓が握り潰されるような「孤独感」を感じていた。


 それは、長年連れ添った家族から切り捨てられた、神悟の悲しみだった。


 二人は、離れた場所で同時に携帯電話を取り出した。


 画面には、互いの短い文章が、同時に表示される。


『家が、終わりました』


『こっちも、終わった』


 腹痛や腰の痛みなら、二人で耐えれば笑い話になった。


 だが、自分の人生の根幹を揺るがすこの現実は、笑い飛ばすことなどできない。


『……どうしますか?』


 神悟の問いかけに、千夏はしばらく画面を見つめ、やがて力強く指を動かした。


『どうするも何もない。……戦うんだよ。奪われたものは、取り返す』


 暗闇の中で、二つの画面の光だけが、彼らの顔を照らしていた。


 お互いの痛みを知る、たった一人の共犯者。


 底辺まで落ちた二人の、本当の反撃が始まろうとしていた。




 続く


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