第32話 覚醒のランナーズ・ハイと、厚化粧の万引き犯
翌日。
轟運送のプラットホームは、異様な空気に包まれていた。
伊集院神悟が、一人で80キロの大型冷蔵庫を軽々と持ち上げ、トラックの荷台に積み込んでいたのだ。
「いよっ、と。……ふふっ、軽い。まるで発泡スチロールだ」
神悟は額の汗を拭い、爽やかに微笑んだ。
整体で腰痛が消えただけでなく、全身の関節が潤滑油を差したように滑らかに動く。
三十年間、猫背で縮こまっていた筋肉が解放され、100%の出力を発揮しているのだ。
その光景を、権田所長が物陰から震えながら見ていた。
「……バケモンだ。あいつ、腰を痛めたフリをして、俺たちを油断させてたんだ……! ついに本性を現しやがった……!」
もはや社内での神悟の評価は、「触れてはいけない暗殺者」から「人間兵器」へと昇格していた。
一方、同時刻。
イエローマートの店内化粧品コーナー。
早乙女千夏は、棚の影から一人の女を睨みつけていた。
年齢は千夏と同じくらい。ブランド物のバッグを持ち、厚化粧で、いかにも「私は客よ」という態度で店内を闊歩している。
だが、千夏は見逃さなかった。
女が高級美容液を、手品のような手つきでバッグに滑り込ませた瞬間を。
「……おい、待てよ」
千夏が声をかけると、女はギョッとして振り返り、すぐに鼻で笑った。
「なによ、パートさん。私になんか用?」
「バッグの中身、見せてもらおうか。今入れたやつだ」
「はぁ!? あんた何様? 名誉毀損で訴えるわよ!」
女は逆ギレし、千夏を突き飛ばして逃げようとした。
図々しい態度。盗人猛々しいとはこのことだ。
千夏のこめかみに血管が浮き出る。
(……このアマ、昔の私ならアスファルトに埋めてるとこだぞ……!)
その瞬間だった。
轟運送で重労働をこなし、全身からアドレナリンをドバドバ分泌している神悟の「絶好調の波」が、Wi-Fiを通じて千夏に流れ込んだ。
ドクンッ!!
千夏の体内で、眠っていた野生が覚醒した。
女が逃げようと走り出した瞬間、千夏は床を蹴った。
(……軽い! なんだこれ!)
一瞬で距離を詰め、女の肩を掴む。
「離しなさいよこの野蛮人!」
女が暴れる。だが、千夏の手は万力のように動かない。
それどころか、千夏は無意識のうちに、現役時代(ヤンキー時代)に得意としていた関節技「不動の岩」の体勢に入っていた。
神悟のパワーと、千夏のテクニックが融合する。
「逃がすかよ……オラァッ!!」
千夏は女の腕をねじり上げ、そのまま床に制圧した。
警察官のお手本のような完璧な逮捕術だ。
「ぎゃあぁぁぁ! 痛い痛い! 折れるぅぅ!」
女が悲鳴を上げる。
「……へぇ、あんたみたいな厚かましい女でも、痛みは感じるんだな」
千夏は女を見下ろし、ニヤリと笑った。疲労感はない。あるのは、圧倒的な力で悪を制圧したという、強烈な万能感だけだ。
……数十分後。
警察に連行される女を見送り(最後まで「不当逮捕だ!」と喚いていた)、千夏は店の裏口で缶コーヒーを一気飲みしていた。
ブブブッ。
スマホが震える。神悟からだ。
『千夏さん、今、誰かと戦ってました? なんか僕の体に、すごい「闘争心」と「達成感」が流れ込んできたんですけど!』
千夏は片手で返信を打った。
『ああ、図々しい万引き犯をシメた。……どうやら私たちのこの回線、痛みだけじゃなく「最高な気分」も共有できるらしいな』
『無敵ですね、僕たち!』
神悟のメッセージには、珍しく絵文字(力こぶ)がついていた。
千夏も、コーヒーの空き缶をゴミ箱に投げ入れながら、空を見上げた。
「無敵、か……悪くねぇな」
54歳の冴えないオッサンと、35歳の疲れ切った主婦。
二人は今、人生で初めての「チート能力」を手に入れた喜びに酔いしれていた。
だが、二人はまだ気づいていない。
感情や体調が「プラス」に振れるなら、当然、強烈な「マイナス」の感情――例えば、抑えきれない「欲望」や「怒り」も、相手にダイレクトに伝染してしまうという、シンクロの本当の恐ろしさに。
続く




