第31話 ゴッドハンドの奇跡と、エクソシスト妻
翌日の夕方。
伊集院神悟は、高島平の路地裏にある古びた雑居ビルの前にいた。
看板には『龍神整体院』とある。
轟運送の同僚から「あそこのジジイは魔法使いだ。死んだ腰も一発で治るが、治療は拷問並みに痛い」と教えられた、知る人ぞ知る名医(?)の治療院だ。
(……このセメントで固められたような腰痛とオサラバできるなら、悪魔に魂だって売る……!)
神悟は悲壮な決意で、引き戸を開けた。
――同時刻。早乙女家、リビング。
早乙女千夏は、キッチンで夕飯の支度をしていた。
その後ろ、リビングのソファで、夫の健介が缶ビールを片手に寝転がっている。
「おい千夏、メシまだかよ」
健介が舌打ちをした。
「お前、最近ずっと『腰が痛い』とか言って手抜きばっかじゃねえか。スーパーのパートくらいで何疲れたアピールしてんだよ」
千夏は包丁を握る手に、ギリッと力を込めた。
言い返したい。でも、言い返せば息子(拓也)の目の前で怒鳴り合いになる。
千夏は奥歯を噛み締め、じっと耐えていた。
その背中は、疲労とストレスで丸く縮こまっている。
――龍神整体院。
「ほぉ……こりゃあ酷い。第四腰椎が完全にズレて、周りの筋肉が石みたいに硬直しておる」
白衣を着た筋骨隆々の老院長が、うつ伏せになった神悟の腰を触って言った。
「兄ちゃん、声帯ちぎれるかもしれんが、我慢しろよ。一撃で『本来の骨の場所』に戻してやる」
「え? いちげ――」
神悟が聞き返すより早く、老院長の丸太のような腕が振り上げられ、神悟の腰の「急所」に向かって、全体重を乗せた肘打ち(エルボードロップ)が投下された。
ゴッッッギャン!!!
「あぎゃあぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!」
神悟の絶叫が、高島平の夕空に響き渡った。
背骨を鋼鉄のハンマーで打ち砕かれたような、致死量の激痛。
――そして、その「矯正の衝撃」は、Wi-Fiに乗って光の速さで千夏に届いた。
早乙女家、キッチン。
「おい、聞いてんのか千夏。俺が稼いだ金で食ってんだから……」
健介が背後からネチネチと説教を続けていた、その瞬間。
「んッギィィィィィィィィッ!!!」
千夏が突然、この世のものとは思えない奇声を上げ、手から包丁を落とした。
そして、丸まっていた背中が、バネ仕掛けの人形のように「ピィィィン!!」と反り返った。
あまりの勢いに、上半身が「マトリックス」の弾避けのようなありえない角度で静止する。
「な……っ!?」
健介がビールをこぼして飛び退いた。
だが、老院長の治療は止まらない。
「よし、次は頸椎(首の骨)の詰まりを取るぞ!」
ボキボキボキッ!!
「ひぎぃっ!」(神悟の悲鳴)
――早乙女家。
直立姿勢に戻った千夏の首が、突然、本人の意思を無視して真横に「カクンッ!!」と折れ曲がった。
そして、そのままグルン、グルンと、まるで呪われた少女人形のように、ものすごいスピードで首を回し始めた。
「ち、千夏……!? お前、どうした……!?」
健介は恐怖で顔を引きつらせた。
妻が突然、人間技とは思えない関節の動きで踊り狂っているのだ。完全にホラー映画のワンシーンである。
「仕上げだ! 肩甲骨の癒着を剥がす!」
老院長が、神悟の背中に指をねじり込む。
「ぬぉぉぉぉぉ!!」(神悟の悲鳴)
――早乙女家。
「シャアァァァァァァッ!!」
千夏は両腕を背中の後ろで不自然に交差させながら、般若のような顔(神悟から伝わる激痛に耐えている顔)で、夫・健介の方をギロリと睨みつけた。
目は血走り、口からは泡(痛すぎて出たよだれ)を吹いている。
「ヒッ……!!」
健介は尻餅をついた。
「ば、化け物……! 悪霊が憑いてる……!」
千夏は、首をカクカクと不気味に揺らしながら、健介に向かって一歩、また一歩と距離を詰めた。
(違う、これはあのクソジジイの痛みが……! 止まらない……!)
千夏は心の中で弁明したが、声に出せない。
結果として、それは「自分を虐げる夫を呪い殺そうとする悪霊の姿」そのものだった。
「わ、悪かった! 俺が悪かった! メシなんていらねえ! 飲みに行ってくるぅぅ!!」
健介は財布だけを掴み、半狂乱で玄関から飛び出していった。
バタン! とドアが閉まる音が響く。
……静寂。
「ふぅ、終わったぞ。どうだ、立ってみろ」
龍神整体院で、老院長が汗を拭った。
神悟は恐る恐るベッドから降りた。
……痛くない。
あれだけセメントのように固まっていた腰が、まるで二十代の頃のように軽い。
「す、すごい……! 羽が生えたみたいだ!」
――早乙女家。
千夏もまた、キッチンで立ち尽くしていた。
さっきまでの疲労感と腰の重さが、嘘のように消え去っている。
全身の血流が良くなり、視界までクリアだ。
「……マジかよ」
千夏は、自分の肩を回してみた。ゴリゴリ鳴らない。完全回復だ。
しかも、一番のストレス源であるモラハラ夫は、恐怖のあまり家から逃亡した。
ブブブッ。
スマホが震える。
『報告します。地獄の痛みの果てに、僕の腰は完治しました。君の腰も軽くなっているはずです』
神悟からだ。
千夏は、誰もいなくなった平和なリビングで、大きく伸びをした。
『ああ、絶好調だ。……ついでに、うちの厄介な「粗大ゴミ」も、あんたの奇行のおかげで追い払えた』
『最高の治療だったぜ、相棒』
高島平の空の下、54歳の男と35歳の女は、同時に「健康な身体」を取り戻していた。
それは、これから始まる「本当の戦い」に向けた、神様からのささやかなプレゼントだったのかもしれない。
続く




