第30話 姑のネチネチ攻撃と、超刺激クエン酸シールド
夕方。
伊集院神悟は、イエローマートのレジ前で、早乙女千夏から「ある物」を受け取っていた。
「……千夏さん、これ……?」
「スーパーの棚の端っこでホコリ被ってたやつだ。一個くれてやる」
神悟の手のひらに乗せられたのは、ド派手なパッケージの飴玉だった。
商品名『激ヤバ! 限界突破クエン酸・超スッパレモンキャンディ(罰ゲーム用)』。
「あのババア(姑)に嫌味を言われたら、すかさずこれを舐めろ」
千夏はレジを打ちながら、前を向いたまま小声で言った。
「人間の脳はな、強烈な『物理的刺激』を受けると、精神的ダメージを一時的にシャットアウトする。……あんたが家でメンタル病むと、こっちまで鬱っぽくなって大迷惑なんだよ」
「……なるほど。味覚の暴力で、心の傷を上書きするんですね」
「そうだ。……死なない程度に戦ってこい」
――午後八時。高島平団地、伊集院家。
リビングのソファには、神悟の妻・美津子(51歳)と、その母・芳子(70代)が陣取っていた。
テーブルには高級な寿司(美津子が神悟の財布から勝手に抜いた金で買ったもの)が並んでいる。
「お義母さん、いらっしゃい……」
神悟がコルセットを巻いた腰を庇いながらリビングに入ると、芳子の目がスッと細められた。
開戦のゴングである。
「あら、神悟さん。相変わらず、くたびれた顔してるわねぇ。……轟運送さんだっけ? まだ平社員なの?」
「ええ、まあ……現場が好きなので……」
「現場ねぇ。美津子がパートに出なきゃいけないくらいのお給料で、よく平気な顔してられるわね。甲斐性がないっていうか……男としてのプライドはないのかしら」
グサッ。
初手から、心臓を抉るようなストレート。
妻の美津子も「本当よね、ご近所さんに恥ずかしいわ」と同調している。
いつもなら、ここで神悟の心は折れ、深い自己嫌悪の底に沈む。
そしてその「鬱の波動」が、Wi-Fiを通じて千夏に飛んでいくはずだった。
(……今だ!)
神悟はポケットに手を入れた。
千夏から託された『限界突破クエン酸キャンディ』の包み紙を、気づかれないように片手で剥き、口の中に放り込む。
その瞬間。
ズギュウゥゥゥゥゥン!!!!
神悟の口の中で、レモン千個分の酸味が大爆発を起こした。
脳髄が痺れ、こめかみの血管がブチ切れそうになる。
舌の上の細胞が「助けてくれ」と悲鳴を上げていた。
(すッッッッッぱぁぁぁぁぁぁぁ!!!!)
神悟の両目から、滝のような涙が噴き出した。
顔面は梅干しのようにシワシワに収縮し、歯を食いしばり、白目を剥きそうになる。
腰の痛みも、姑の嫌味も、すべてが「圧倒的な酸味」の前に消し飛んだ。
――同時刻。早乙女家、キッチン。
千夏は、息子の拓也の横で洗い物をしていた。
突如、口の中に「致死量の酸っぱさ」が広がる。
「……んぐぉっ!?」
千夏は思わずシンクに突っ伏し、むせ返った。
「母ちゃん!? どうしたの!?」
「だ、大丈夫……。ちょっと、変な虫が……」
千夏は涙目で口元を押さえながら、ふっと笑った。
(……やりやがったな、あのジジイ。しっかり戦ってんじゃねえか)
精神的ダメージの「鬱」が送られてくるより、数万倍マシだ。
千夏は、見えない相棒に向かって、心の中で親指を立てた。
――伊集院家。
姑の芳子は、言葉を失っていた。
先ほどから嫌味を連発しているのに、神悟が言い訳一つしない。
それどころか、神悟は一言も発さず、顔面を般若のように歪ませ、大粒の涙を流しながら、芳子の顔を「血走った目」でギロリと睨みつけているのだ。
(本人は酸っぱさに耐えているだけである)。
「な……なによ、その目は……」
芳子が後ずさった。
「わ、私が悪者みたいじゃないの……! 泣きながら睨むなんて、気味が悪いわね!」
神悟は声を出せない。口を開ければ、よだれと一緒に酸味が喉の奥に流れ込んで死んでしまうからだ。
結果として、それは「無言の強烈なプレッシャー」となった。
「……もういいわ! 今日は帰る!」
芳子はバッグをひったくると、逃げるように玄関へ向かった。
「美津子、あんたの旦那、ちょっと頭おかしいわよ! 狂気を感じるわ!」
バタン。
嵐が去った。
美津子が呆然と立ち尽くしている。
「……あなた、お母さんに何て態度とるのよ……」
だが、まだ「クエン酸の地獄」から抜け出せない神悟が、鬼の形相のまま振り返ると、美津子も「ヒッ」と短く悲鳴を上げて、寝室に逃げ込んでしまった。
静まり返ったリビング。
残されたのは、高級寿司と、涙とよだれで顔をぐしゃぐしゃにした54歳の男。
神悟はようやくキャンディを噛み砕き、ゼェゼェと肩で息をした。
ブブブッ。
スマホが震えた。
『……無事か、クソジジイ。こっちの舌が溶けるかと思ったぞ』
千夏からだ。
神悟は、誰もいなくなったリビングで、寿司を一つ口に放り込みながら返信した。
『……勝利しました。僕は三十年ぶりに、ノーダメージで義母を撃退したんです』
『最高のシールドでした。ありがとう、相棒』
寿司の味は、まだクエン酸のせいで全く分からなかった。
それでも、神悟の心は、ここ数十年で一番晴れやかだった。
続く




