第29話 もみ消された救急車と、勘違いの暗殺者
「救急車ぁぁーー!!」
事務員の悲鳴が、朝の轟運送に響き渡る。
だが、その直後だった。
うずくまっていた権田所長が、激痛に顔を歪めながら、鬼のような形相で叫んだ。
「……ま、待てぇぇ!! 呼ぶな!!」
「えっ? で、でも所長、伊集院さん白目むいて、泡吹いてますけど……」
「うるせえ! 労災になるだろうが!!」
権田は、這いつくばったまま事務員を怒鳴りつけた。
「ただの転倒だ! 救急車なんぞ呼んだら、労基(労働基準監督署)が来て面倒なことになる! ……俺は大丈夫だ、立てる!」
権田はプルプルと震える足で、無理やり立ち上がった。
さすがは元ヤンの叩き上げ。フィジカルの強さはゴリラ並みだ。
だが、その目は恐怖で見開かれていた。
目の前で、白目を剥いて倒れている伊集院神悟を見下ろす。
(……こいつ、やりやがった。計算づくで、俺の鳩尾だけを正確に……!)
――数十分後。所長室。
伊集院神悟は、パイプ椅子にちょこんと座らされていた。
腰が痛すぎて正座もできないため、空気椅子のような中腰だ。
目の前には、湿布を貼った腹をさする権田がいる。
「……伊集院」
権田が低い声で言った。部屋には二人きりだ。
「お前……いつからだ?」
「は、はい……?」
神悟は震え上がった。
(終わった。クビだ。救急車騒ぎまで起こして、退職金も出ない。路頭に迷う……)
「いつから……あんな『暗殺拳』を身につけた?」
「……へ?」
神悟は耳を疑った。
権田は、脂汗を垂らしながら神悟を見ていた。
「あのタイミング……そして跳躍からのボディプレス……。あれはただの事故じゃねえ。俺の呼吸を読んで、急所を潰しに来たプロの動きだったぞ」
「い、いえ! あれは体が勝手に……ラジオ体操が……」
「ラジオ体操だと!? ……ふん、業界の隠語か」
権田はゴクリと唾を飲んだ。
普段は大人しく、何を言ってもヘラヘラしている伊集院。
だが、昨日の亀山社長との一件(テキーラ無双)といい、今朝の暴挙といい、何かがおかしい。
こいつは、実はとんでもない「狂犬」を飼っているのではないか?
下手に刺激して警察沙汰になれば、俺の過去や会社の裏帳簿まで捲られるんじゃないか?
「……わかった。今回の件は不問にする」
権田が言った。
「えっ!? い、いいんですか!?」
「その代わり……俺に近づくな。半径2メートル以内に入るな。……いいな?」
権田は完全にビビっていた。
神悟は、クビを免れた安堵と同時に、社内で「触れてはいけない狂犬・伊集院」という不名誉(かつ最強)な称号を手に入れてしまった。
――同時刻。イエローマート、レジ打ち。
「いらっしゃいませー」
早乙女千夏は、けだるそうに商品をスキャンしていた。
ラジオ体操のおかげで腰は軽いが、なぜか別の場所が痛い。
(……なんか、頭と鳩尾がズキズキすんだけど……)
神悟が所長に頭突きした衝撃と、ボディプレスの反動だ。
千夏は首を傾げながら、レジカゴを持ち上げた。
その時。
ブブブッ。
スマホが震える。
神悟からだ。
『報告します。クビは繋がりました』
『所長が労災隠しのために救急車を追い返しました。そのせいで、僕は所長を殺しかけた「暗殺者」だと勘違いされています』
『みんなが避けて通ります。怖いです』
千夏は、レジ打ちの手を止めて吹き出しそうになった。
客が不審な目で見ている。
『ざまぁみろ。……でも、結果オーライだ』
『感謝しろよ。私の体操のおかげで、あんたはナメられない男になったんだ』
神悟はトイレで返信を見た。
ナメられない男。
確かに、廊下ですれ違う同僚たちが、モーゼの十戒のように道を空けてくれる。
みんな、僕の目を見ない。
(……これが、強者の景色……?)
神悟は複雑だった。
ただの操り人形なのに。
でも、30年間味わったことのない「優越感」が、少しだけ心地よかった。
しかし、運命はそう簡単に神悟を勝ち組にはさせない。
昼休み。
神悟のスマホに、妻・美津子からのLINEが入った。
『今日、お母さんが来るから。早く帰ってきて』
神悟の血の気が引いた。
お母さん。つまり、義母(姑)だ。
この世で権田所長よりも恐ろしい、神悟の天敵。
皮肉屋で、神悟の安月給をネチネチと攻撃してくる最強のモンスター。
『……無理だ。腰が痛いし、精神が持たない』
神悟は心の中で拒否したが、指は勝手に『了解』と打っていた。
長年の服従の癖だ。
神悟は千夏にSOSを送った。
『助けて。今夜、ラスボス(義母)が来ます』
『僕のメンタルが死ぬと、リンクして君も鬱になりますよ』
千夏からの返信は、冷酷かつ的確だった。
『知るか。……だが、精神攻撃を防ぐ方法は一つある』
『心を「無」にするな。逆に「鬼」になれ』
『どういうことですか?』
『帰りに、私の店に寄れ。……最強の「盾」を貸してやる』
夕方。
神悟はおそるおそるイエローマートに向かった。
そこで千夏から渡されたのは、主婦の知恵が詰まった「ある商品」だった。
続く




