第27話 午前二時の寝返りミッションと、孤独な天井
深夜、午前二時。
世界は静まり返っていたが、二人のベッドの上だけは戦場だった。
伊集院神悟は、自宅のベッドで仰向けのまま、脂汗を垂らしていた。
隣では妻の美津子が背中を向けて寝息を立てている。
彼女は、夫が呻き声を上げても「うるさいわね、明日は早いのよ」と一蹴し、耳栓をして寝てしまった。
(……痛い。腰が……コンクリート詰めされたみたいだ……)
同じ姿勢で四時間。
血流が止まり、背中とお尻の感覚がない。
寝返りを打ちたい。右を向きたい。
だが、腰には爆弾がある。ほんの数ミリ動かすだけで、脊髄に雷が落ちる。
ブブブッ。
枕元のスマホが震えた。
早乙女千夏からだ。
『おい。起きてるか?』
『背中が腐りそうだ。右を向きたい』
神悟は、わずかに動く親指だけで返信した。
『奇遇ですね……僕も限界です。お尻の感覚がありません』
『でも、一人で動くのは危険すぎます。……協力しましょう』
千夏からの返信は早かった。
『プランは?』
『シンクロ・ローリング作戦です』
『僕たちが同時に、同じ方向(右)に寝返りを打つことで、痛みの衝撃を分散……はできませんが、精神的な支えにはなります』
『あと、タイミングを合わせないと、片方が不意打ちで死にます』
『……わかった。カウントしろ』
午前二時十分。
高島平の団地(神悟の家)と、そこから数キロ離れたアパート(千夏の家)。
二人の男女が、それぞれの闇の中で、決死の覚悟を決めた。
目標:右側面への回頭。
リスク:脊椎の崩壊、および激痛による絶叫(家族が起きる)。
神悟がカウントダウンのスタンプを送る。
『3』
千夏が息を吸い込み、腹筋に力を入れる。
『2』
神悟がシーツを握りしめ、足の指を突っ張る。
『1』
全身の筋肉を連動させ、腰を浮かさずに回転力を生む。
『GO!!』
瞬間。
二人は同時に、掛け布団ごと体を捻った。
ゴロンッ!!
「んぐぎぃぃぃぃぃっ!!!!」
「ふぐぅぅぅぅぅぅぅっ!!!!」
声にならない悲鳴が、それぞれの寝室の天井に吸い込まれていく。
痛い。死ぬほど痛い。腰の中で乾燥したパスタが束ごと折れるような感覚。
だが、二人は止まらなかった。勢いを殺せば、そこで動けなくなる。
地獄の半回転。
……静寂。
神悟は、右向きになっていた。
千夏も、右向きになっていた。
ハァ、ハァ、ハァ……。
荒い呼吸だけが響く。
成功だ。新しい景色(壁)が見える。
ブブブッ。
スマホが震える。
『……生きてるか?』
『……なんとか。……三途の川で、亡くなったお婆ちゃんが見えました』
『……私もだ。……でも、背中の血が通い始めた』
神悟は、スマホを握りしめたまま、ふと奇妙な感覚に襲われた。
今、自分は右を向いている。
千夏さんも、右を向いている。
遠く離れた場所にいるのに、まるで「同じベッドで、背中合わせに寝ている」ような錯覚。
背中に、ほんのりと他人の体温(のような幻覚)を感じる。
いつもなら「気持ち悪い」と思うはずだ。
でも、今夜だけは。
妻に背を向けられ、孤独に耐えていた夜だけは。
『……おやすみ、相棒』
神悟が送ると、すぐに既読がついた。
『……寝ろ。明日も地獄だぞ』
ぶっきらぼうな返信。
でも、神悟は少しだけ口元を緩め、目を閉じた。
腰は痛いが、心は静かだった。
「痛み」を共有してくれる誰かがいるだけで、人間はこんなにも安心して眠れるのか。
……翌朝。
その「安心」が、最悪の勘違いを生むことになるとも知らずに、二人は深い眠りに落ちていった。
続く




