↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
27/43

第26話 二人三脚の尺取り虫と、真夜中のタクシー


 午後八時。


 イエローマートの閉店時間が迫っていた。


 休憩室の空気は、湿布の匂いと、二人の脂汗の匂いで満ちていた。


「……そろそろ、出ないと」


 伊集院神悟が、ゾンビのような声で言った。


「店が閉まる。警備システムが作動したら、僕たちは不審者として通報される」


「……わかってるよ」


 早乙女千夏が、天井を睨んだまま答えた。


「でも、どうやって? 今の私たちは、生まれたての小鹿以下だよ」


 二人の腰は、数時間の安静(放置)によって完全に冷却され、セメントで固められたかのように硬直していた。


 指一本動かすだけで、脊髄に電流が走る。


「……協力しよう」


 神悟が決死の覚悟で言った。


「一人では立てない。でも、二人で支え合えば……『人』という字になれるはずだ」


「……ダサいこと言ってないで、プランを出しな」


「プランA。……『ドッキング』だ」




 五分後。


 従業員通用口に、奇妙な生物が現れた。


 神悟と千夏が、お互いの肩をガッチリと組み、背中を合わせ、「人」という字(正確には、崩れかけの漢字)になって立っていたのだ。


 神悟が右足担当。千夏が左足担当。


 腰への負担を極限まで分散させる、究極の免震構造である。


「いいかい、千夏さん。僕が『右』と言ったら右足を出して。君は『左』だ」


「わかってる。……少しでもズレたら、あんたの肋骨を折る」


「ヒィッ……了解。いくよ……せーの!」


「右!」「……っつ! 左!」


「右!」「……ぐっ! 左!」


 ズリッ……ズリッ……。


 二人は、まるで巨大な「尺取り虫」のように、数センチずつ前進した。


 傍から見れば、泥酔した中年カップルがもつれ合っているようにしか見えない。


 だが当人たちは、アポロ13号の帰還ミッション並みの真剣さだった。


「……い、痛い……! 振動が……!」


「うるさい! 歯を食いしばれ! ……ここで崩れたら、二人とも共倒れだ!」




 通用口からタクシー乗り場まで、距離にして約50メートル。


 その道のりが、今の二人にはサハラ砂漠横断より過酷だった。


 冷たい夜風が吹き付ける。


 通行人が「うわぁ……」という顔で避けていく。


 だが、二人は止まらなかった。


 神悟のよれたスーツと、千夏のスーパーの制服が擦れ合う。


「……タクシー!」


 神悟が、最後の力を振り絞って手を挙げた。


 奇跡的に、一台の個人タクシーが止まる。


 運転手がギョッとした顔で窓を開けた。


「お、お客さん……大丈夫? 病院ですか?」


「……いえ、高島平団地まで……」


 神悟が息も絶え絶えに告げる。


「……できるだけ……揺らさないでください……。この車に……爆弾(僕たちの腰)が積まれていると思って……」


「は、はぁ……?」




 車内。


 二人は後部座席に、死んだ魚のように並んで座った。


 シートの柔らかさが、逆に怖い。


 車が走り出す。


 流れる街の灯り。


 神悟は、隣で目を閉じている千夏を横目で見た。


 化粧は崩れ、髪はボサボサ。疲れ切った35歳の横顔。


 でも、さっき休憩室で見た「絶望の涙」は、もう乾いていた。


(……強い人だ)


 神悟は思った。


 夫に冷たくされ、一人で息子を育て、重い荷物を運び、こうして痛みに耐えている。


 僕なんかより、ずっと戦っている。


「……千夏さん?」


「……ん?」


「……家まで、荷物持てる?」


 神悟は、千夏の足元にある「息子のためのオードブル(中華)」を指した。


「……意地でも持って帰るよ」


 千夏は、唐揚げの入った袋を大事そうに抱きしめた。


「……拓也が待ってるからな」


 その言葉に、神悟はまた胸がズキッとした。


 痛みではない。


 これはきっと、少しだけ温かい「共感」の痛みだ。


 タクシーが高島平の巨大団地の前に停まる。


 千夏が降りる番だ。


 彼女は、呻き声を上げながらドアを開け、片足を引きずって降りた。


 そして、閉める直前に、ボソッと言った。


「……今日は、ありがとな。ジジイ」




 バタン。


 ドアが閉まる。


 神悟は、遠ざかる千夏の背中を見送った。


 腰は砕けそうに痛い。家には冷え切った妻が待っている。


 明日の仕事はどうなるかわからない。


 それでも、神悟はタクシーの窓に映る自分の顔を見て、少しだけ笑った。


 今までで一番、マシな顔をしている気がしたからだ。




続く


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。