第26話 二人三脚の尺取り虫と、真夜中のタクシー
午後八時。
イエローマートの閉店時間が迫っていた。
休憩室の空気は、湿布の匂いと、二人の脂汗の匂いで満ちていた。
「……そろそろ、出ないと」
伊集院神悟が、ゾンビのような声で言った。
「店が閉まる。警備システムが作動したら、僕たちは不審者として通報される」
「……わかってるよ」
早乙女千夏が、天井を睨んだまま答えた。
「でも、どうやって? 今の私たちは、生まれたての小鹿以下だよ」
二人の腰は、数時間の安静(放置)によって完全に冷却され、セメントで固められたかのように硬直していた。
指一本動かすだけで、脊髄に電流が走る。
「……協力しよう」
神悟が決死の覚悟で言った。
「一人では立てない。でも、二人で支え合えば……『人』という字になれるはずだ」
「……ダサいこと言ってないで、プランを出しな」
「プランA。……『ドッキング』だ」
五分後。
従業員通用口に、奇妙な生物が現れた。
神悟と千夏が、お互いの肩をガッチリと組み、背中を合わせ、「人」という字(正確には、崩れかけの漢字)になって立っていたのだ。
神悟が右足担当。千夏が左足担当。
腰への負担を極限まで分散させる、究極の免震構造である。
「いいかい、千夏さん。僕が『右』と言ったら右足を出して。君は『左』だ」
「わかってる。……少しでもズレたら、あんたの肋骨を折る」
「ヒィッ……了解。いくよ……せーの!」
「右!」「……っつ! 左!」
「右!」「……ぐっ! 左!」
ズリッ……ズリッ……。
二人は、まるで巨大な「尺取り虫」のように、数センチずつ前進した。
傍から見れば、泥酔した中年カップルがもつれ合っているようにしか見えない。
だが当人たちは、アポロ13号の帰還ミッション並みの真剣さだった。
「……い、痛い……! 振動が……!」
「うるさい! 歯を食いしばれ! ……ここで崩れたら、二人とも共倒れだ!」
通用口からタクシー乗り場まで、距離にして約50メートル。
その道のりが、今の二人にはサハラ砂漠横断より過酷だった。
冷たい夜風が吹き付ける。
通行人が「うわぁ……」という顔で避けていく。
だが、二人は止まらなかった。
神悟のよれたスーツと、千夏のスーパーの制服が擦れ合う。
「……タクシー!」
神悟が、最後の力を振り絞って手を挙げた。
奇跡的に、一台の個人タクシーが止まる。
運転手がギョッとした顔で窓を開けた。
「お、お客さん……大丈夫? 病院ですか?」
「……いえ、高島平団地まで……」
神悟が息も絶え絶えに告げる。
「……できるだけ……揺らさないでください……。この車に……爆弾(僕たちの腰)が積まれていると思って……」
「は、はぁ……?」
車内。
二人は後部座席に、死んだ魚のように並んで座った。
シートの柔らかさが、逆に怖い。
車が走り出す。
流れる街の灯り。
神悟は、隣で目を閉じている千夏を横目で見た。
化粧は崩れ、髪はボサボサ。疲れ切った35歳の横顔。
でも、さっき休憩室で見た「絶望の涙」は、もう乾いていた。
(……強い人だ)
神悟は思った。
夫に冷たくされ、一人で息子を育て、重い荷物を運び、こうして痛みに耐えている。
僕なんかより、ずっと戦っている。
「……千夏さん?」
「……ん?」
「……家まで、荷物持てる?」
神悟は、千夏の足元にある「息子のためのオードブル(中華)」を指した。
「……意地でも持って帰るよ」
千夏は、唐揚げの入った袋を大事そうに抱きしめた。
「……拓也が待ってるからな」
その言葉に、神悟はまた胸がズキッとした。
痛みではない。
これはきっと、少しだけ温かい「共感」の痛みだ。
タクシーが高島平の巨大団地の前に停まる。
千夏が降りる番だ。
彼女は、呻き声を上げながらドアを開け、片足を引きずって降りた。
そして、閉める直前に、ボソッと言った。
「……今日は、ありがとな。ジジイ」
バタン。
ドアが閉まる。
神悟は、遠ざかる千夏の背中を見送った。
腰は砕けそうに痛い。家には冷え切った妻が待っている。
明日の仕事はどうなるかわからない。
それでも、神悟はタクシーの窓に映る自分の顔を見て、少しだけ笑った。
今までで一番、マシな顔をしている気がしたからだ。
続く




