第25話 冷めた夫婦仲と、熱々の唐揚げ
午後六時。
イエローマートの従業員休憩室は、夕闇に包まれていた。
湿布臭い部屋で、二つの影が長椅子に横たわっている。
伊集院神悟と、早乙女千夏。
二人は、ピクリとも動けずにいた。動けば、腰の導火線に火がつくからだ。
静寂を破ったのは、千夏のスマホの着信音だった。
「……あ、もしもし……拓也?」
千夏がスピーカーモードにする。手で持っていられないからだ。
『母ちゃん! すごいよこれ! 唐揚げ山盛りじゃん!』
電話の向こうから、小学生の息子の弾んだ声が聞こえる。
神悟が手配した、高島平の町中華『珍来』のオードブルが届いたようだ。
「……ごめんね。母ちゃん、ちょっと腰やっちゃってさ……今日はそれでパーティーしてて……」
『うん! うめー! チャーハンもすげえ量! ありがとう母ちゃん!』
息子の無邪気な声に、千夏の表情が緩む。
神悟も、天井を見上げながら少し安堵していた。
よかった。少なくとも、誕生日は台無しにならなかった。
だが、その空気は一瞬で凍りついた。
『……おい。なんだこれ』
電話の向こうで、低い男の声がした。
千夏の夫だ。
『また出前かよ。今日、拓也の誕生日だろ? 手作りとかねぇの?』
『父ちゃん、これ美味いよ!』
『うるせぇな。……おい千夏、聞いてんのか。お前、いつ帰ってくんだよ。俺の飯はどうなってんだよ』
スピーカーから響く、冷徹な声。
「大丈夫か?」の一言もない。
妻が怪我をしていると聞いても、心配より先に「自分の飯」を気にする言葉。
「……ごめん。腰が痛くて……動けなくて……」
千夏が弱々しく言い訳をする。
『あー、はいはい。またそれか。お前、そうやってサボる口実ばっか上手くなるよな』
『……はぁっ?』
『いいよもう。俺はコンビニで適当に買うから。……拓也、そんな脂っこいもん食いすぎんなよ。頭悪くなるぞ』
プツッ。
通話が切れた。
休憩室に、重苦しい沈黙が戻る。
千夏は何も言わなかった。
ただ、天井のシミを見つめたまま、動かない。
その時。
ズキィィィィン……!!
神悟の胸の奥――心臓のあたりに、鋭い痛みが走った。
いつもの物理的な痛みじゃない。
もっと深く、重く、息ができなくなるような圧迫感。
まるで、心臓を素手で握りつぶされているような苦しみ。
(……痛い……なにこれ……)
神悟は呻きそうになり、気づいた。
これは、僕の痛みじゃない。
千夏さんの痛みだ。
横を見ると、千夏の目から、音もなく涙が溢れ出していた。
表情は怒っていない。ただ、悔しさと、情けなさと、諦めが混ざり合った、大人の絶望の顔。
彼女はずっと、家庭でこんな扱いを受けてきたのか。
「サボり」と言われ、痛みを無視され、それでも息子のために笑ってきたのか。
その「心の傷」が、今、神悟の中にダイレクトに流れ込んでいた。
腰の痛みより、ずっと辛い。
涙が出そうなほど、胸が痛い。
「……千夏さん」
神悟は声をかけた。いつもの軽口ではない。
「……うるせぇ」
千夏は涙を拭おうともせず、天井を睨んだ。
「……見んな。……笑ったら、殺すぞ」
「笑わないよ」
神悟は、痛む腰を無視して、無理やり体を起こした。
激痛が走るが、今はそれどころじゃない。
神悟はポケットから、くしゃくしゃになったハンカチを取り出し、千夏の顔の上にバサッと落とした。
手渡しする距離までは動けなかったからだ。
「……痛いんだよ」
神悟は自分の胸を押さえた。
「君が泣くと、僕のここが……めちゃくちゃ痛いんだ。腰より痛いんだよ」
「……は?」
千夏がハンカチ越しに神悟を見た。
「だから、泣き止んでくれとは言わない。でも……一人で泣いてると思わないでくれ」
神悟は真顔で言った。
「その胸の痛み、半分は僕が引き受けてる。……だから、君が感じてる苦しさは、今は半分だ」
千夏は言葉を失った。
ダサい。
54歳の、ぎっくり腰の、冴えないオッサンが言うセリフじゃない。
でも。
(……半分、か)
千夏は、顔にかかった加齢臭のするハンカチを、少しだけ握りしめた。
不思議と、さっきまで呼吸ができないほど苦しかった胸のつかえが、少しだけ軽くなった気がした。
「……くっさ」
千夏は鼻声で呟いた。
「……洗剤、変えなよ。ジジイ」
「……善処します」
薄暗い休憩室。
動けない二人の男女。
そこには恋愛感情なんて欠片もなかったが、確かに「相棒」としての絆が、初めて結ばれた夜だった。
続く




