第22話 暴走レジ打ちと、自動土下座スキル
その日の午後、イエローマートのレジ前には、嵐の前の静けさが漂っていた。
「おい、これどういうことだよ!」
怒声が響く。
早乙女千夏の目の前には、食いかけの惣菜パックを突きつける老人(70代・クレーマー歴戦の猛者)が立っていた。
「味が薄いんだよ! 半分食ったけど不味くて食えねえ! 金返せ!」
理不尽すぎる要求。
千夏のこめかみに、青筋がピキリと浮かぶ。
(……あぁん? テメェの舌が麻痺してんだろ、老いぼれが……)
千夏の中の「元ヤンの血」が沸騰した。
血管の中でマグマが暴れ回る。
千夏は無意識に拳を握りしめ、レジカウンターの下で足を大きく開いた。喧嘩の構えだ。
(ここで右ストレート入れたら、クビ確定……でも、我慢できねぇ……!)
理性が焼き切れる寸前。千夏が口を開いて「うっせぇボケ!」と言い放とうとした、その瞬間だった。
――同時刻。轟運送の2トントラック。
赤信号で停車中の伊集院神悟は、ハンドルを握りながら戦慄した。
『殺す……今ここで殺して、私も死ぬ……!』
脳内に流れ込んできた、千夏のドス黒い殺意。
神悟は瞬時に状況を理解した。
(まずい! 千夏さんが仕事中にキレようとしている!)
(ダメだ! ここで手を出したら、傷害罪で逮捕だ! 社会的死だ!)
神悟の「事なかれ主義」のサイレンが鳴り響く。
30年間、パワハラ上司と理不尽な客に頭を下げ続け、心を殺して生き延びてきた「社畜の防衛本能」が、自動的に発動した。
『千夏さん! 考えるな! 僕の「反射神経」に身を任せて!』
神悟は念じた。
心を無にして、ひたすら「申し訳なさそうな顔」を作る。その感覚を、Wi-Fiに乗せて送信する。
――イエローマート。
千夏の右手が上がった。
老人の顔面を殴る――はずだった。
しかし。
スッ。
千夏の上半身は、流れるような動作で45度の角度に折れ曲がった。
美しいお辞儀だ。
「……は?」
千夏自身が驚愕する中、勝手に口が動く。
「大変申し訳ございませんでしたぁぁーーっ!!」
店内に響き渡る、完璧な「ビジネストーン」の謝罪。
ヤンキーのドスの利いた声ではなく、裏返る寸前の、哀愁漂うサラリーマンの叫び声だった。
「お、お客様の貴重なご意見、深く胸に刻みますぅっ! すぐに返金の手続きを……いえ、お詫びの品もお持ちしますぅっ!」
千夏(の体を操る神悟の魂)は、目にも留まらぬ速さでレジを操作し、老人の手を取り、揉み手をして、涙目で上目遣いをした。
「どうか、どうか今回だけはご勘弁をぉぉ……!」
その姿は、完全に「うだつの上がらない中間管理職」そのものだった。
あまりの卑屈さ、あまりの流暢な負け犬ムーブに、老人がドン引きして後ずさる。
「お、おう……わ、わかればいいんだよ。次は気をつけろよ……」
老人は毒気を抜かれ、そそくさと逃げていった。
……静寂が戻る。
千夏は直立不動のまま、自分の両手を見つめた。
震えている。
怒りではない。「屈辱」でだ。
ブブブッ。
トラックの中の神悟からメッセージが届く。
『ふぅ……危なかったですね。僕の「土下座回避スキル」、役に立ちましたか?』
千夏はスマホをへし折る勢いで握りしめ、返信した。
『ふざけんな』
『あんな情けない声、私のキャラじゃないんだよ! 死にたくなったわ!』
『……でも、クビは繋がった。……今回だけは借りにしといてやる』
神悟はトラックの中で、ほっと胸を撫で下ろした。
千夏の「強さ」と、神悟の「弱さ」。
正反対の二つの武器が、最悪の日常を少しだけ生きやすくし始めていた。
だが、その安堵も束の間。
神悟のトラックの荷台には、千夏にとって「最悪の時限爆弾」となる荷物が積まれていることを、二人はまだ知らない。
続く




