第99話 あんた以外の人
食堂の卓を四つ繋げても、端末の画面を立てる場所が足りなかった。
サワの顔が、塩の瓶の横に映っていた。タルクの画面には、いつもどおり掌しか映っていない。トレイの船長は鉛筆を耳に挟み、リレーの船長は後ろの白板に、もう何か数字を書き始めていた。卓の本物の椅子には、コマとブンが並んで座っている。コマは寝袋を丸めて膝に抱え、ブンは老眼鏡を額に上げて、手書きの古い海図を広げていた。テツ、若い保守員、ユイ。ヴィクは壁際に立っていた。
オトが厨房から、大きなボウルを抱えて出てきた。中に、発酵の途中のパン生地が、白く膨らんでいた。
「これ、借りる」ケイは言った。
「何に」
「岩」
オトは一瞬だけボウルを抱え直し、それから卓の真ん中に置いた。ケイは生地を両手で掴み出し、卓の上で丸めた。指で押して、凹ませる。片側を平らに潰し、反対側を盛り上げる。フォークを取って、盛り上がった側の脇に、一本、細い溝を刻んだ。溝の口を、指先で摘まんで細く絞った。
「北の溝」ブンが言った。老眼鏡を下ろした。「口のとこが、細くなってる。喉だ。昔の連中は、そう呼んでた」
ケイは頷き、爪楊枝を一本ずつ、溝の両壁に刺していった。等間隔に。旧採掘の固定杭。それから、生地の盛り上がった側に、指で小さな穴を開けた。穴から溝の奥へ、串で細いトンネルを通した。
「倉庫B」テツが言った。「ウインチの床のレールの先、ですか」
「旧搬出路。溝の一番奥に抜けてる」ケイは卓の端にあった角砂糖を一つ取り、生地の岩から離れた所に置いた。「ブロックC」
角砂糖の脇に、ブロックCに掛かっていた見慣れない鉤の写真を、ユイが端末で出した。仮係留の索に、誰も掛けた覚えのない鉤が、一つ、掛かったままになっている。
「あいつは次に、Cを取りに来る」ケイは言った。「人がいない。まだ繋いでない。船団の取り分で、うちの次の家だ」
「灯の次は、家ごと」サワが言った。「請求、どこに回せばいい」
ケイはオトの厨房から、料理用の細い糸を一巻き借りた。糸の端を、倉庫Bの穴に結んだ。串のトンネルを通し、溝の奥から出して、溝の中を喉まで引いた。喉の爪楊枝に一回、掛けて折り返し、角砂糖まで伸ばして、結んだ。
それから、角砂糖を指で摘まみ、岩から離れる向きへ、引いた。
糸が張った。喉の爪楊枝のところで、糸の向きが曲がった。角砂糖は、ケイの指が引いた向きにはまっすぐ進まず、くるりと向きを変えた。ケイの指の先が、生地の岩の盛り上がった尾根のほうへ、振られた。
画面の中で、タルクの掌が、ゆっくり握られた。
「重いのは、俺が持つ」タルクの声が言った。
「今度は、岩が持つ」ケイは糸を指で弾いた。「ガルムの推力は、岩に勝てない。勝てないものに、あいつを繋ぐ」
「溝で待ち伏せるの?」ユイが聞いた。
「待ち伏せは、できない」ケイは、爪楊枝の並んだ溝を見た。「あいつは溝を知ってる。俺が溝を知ってることも、もう知ってる。ゆうべ、教えた」
誰も笑わなかった。ブンだけが、海図の端を指で叩いた。
「だから、溝には隠れない」ケイは糸の上に指を置いた。「溝には、これを通す。あいつが見ても、ただの綱だ」
「巻き胴のブレーキは、僕が見ます」テツが言った。声が早かった。「署名は僕のです。暫定じゃなくて正式のほうです。点検記録は三回分ありますし、ブレーキの摩耗板は先々月、あ、先々月じゃない、先月に替えてて、あの、定格の中です。中なんですけど、あの定格は、船を引く想定では」
「中なら、いい」ヴィクが壁際から言った。「電源は私が見る。あんたは、ブレーキだけ見な」
「給電は、四秒で乗せる」リレーの船長が、白板の数字を指で叩いた。「落ちたら、四秒。四秒は我慢してくれ」
「うちは、前払いはいらない」コマが寝袋を抱え直した。「Cが取られたら、うちの取り分も消える。その代わり、後で倍」
「倍は、ない」ケイは言った。
「言ってみただけ」
ブンが、海図の上に手を置いた。「見張りは、俺だ」
ケイはブンを見た。皺になった「出るときは呼べ」の字を思い出した。
「頼む」ケイは言った。「今度は、呼ぶ」
ブンは鼻を鳴らした。
「ユイ」ケイは振り向いた。「その夜、放送しろ。『夕方の雑談』の臨時で。見えるものを全部、喋れ。回線は管轄にも繋げ。ロクの机に」
ユイは目を丸くして、それから、放送室の鍵を握りしめた。「全部って、全部? 誰が何をしてるか、実況で?」
「全部だ。証拠は、番号だけじゃない。見てる人間の数も、数える」
ユイは頷いて、もう手帳に何か書き始めていた。字が、いつもより大きかった。
卓の上で、生地の岩が、膨らみ続けていた。フォークで刻んだ溝が、発酵に押されて、少しずつ浅くなっていく。テツが、それに気づいて、指で溝をなぞり直そうとした。コマが、その横で、生地の端をちぎろうとしていた。
オトが、コマの手首を掴んだ。
「食べないでよ、それ明日のパン」
コマは手を引いた。オトは岩ごと生地をボウルに戻して濡れ布巾を掛け、厨房へ抱えていった。布巾の下から、爪楊枝が一本、突き出ていた。
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