第98話 一人で行くな
夜の当番表は、修理ベイの扉に貼ってあった。
ブンの字で、升目の一つに「夜 ブン(カンナ・影の側)」と書いてある。その下に、同じ字で「出るときは呼べ」。カンナは今夜も、ブロックB・Cの仮係留の見える影の側に浮いている。北の溝の口は、仮係留の先、二本目の口の脇にある。カンナの窓からは、ブロックの白い腹の陰になる。ケイは表の前で一度止まり、それから、表の前を通り過ぎた。ブンを呼べば、ブンは持ち場を離れる。一人で行けば、見張りは穴にならない。そう考えたことを、ケイは後で何度も思い出すことになった。
ハチの灯りを一つだけ点けて、北の溝へ入った。
溝の口は、ハチがやっと三台並ぶ幅だった。両壁に、旧採掘の固定杭が等間隔に打ち込まれている。灯りの輪の中を、杭が一本ずつ過ぎた。三本目、四本目。擦れ跡は前に見たときより増えていた。索を掛けて、何か重い物を、何度も出し入れした跡だった。十一本目の杭の先で、右の壁が深く抉れていた。旧採掘の横穴の入口だった。
灯りを穴の奥へ向けた。網があった。
回収屋が使う太い網に、円筒が四つ、包まれていた。硝子の灯室。そのうち三つには台座の脚が付いたままで、脚の切り口が網の目から覗いて、ハチの灯りを返した。残りの一つは、脚のない灯室だけだった。キサ線の三基と、ナバ線の一基だった。ロクの紙に書かれた四つの番号が、たぶん、この中にあった。
ハチを穴の口に寄せた。右の爪で網の縁を掴み、左の爪に切断刃を持たせた。直した左は、言ったときに言った所へ来た。網の一本目の索を切った。二本目。網が緩んで、灯室の一つが、回りながら口のほうへ滑り出てきた。
その灯室の硝子に、光が映った。ハチの灯りとは、色が違った。
溝の口のほうで、灯が点いた。一つ、二つ。振り返る前に、奥の側でも点いた。溝の両端に、小さな回収艇が二隻ずつ、横に並んで口を塞いでいた。その後ろに、ひときわ大きな、黒い船影があった。ガルムだった。船首の灯だけが、まっすぐハチを照らしていた。
「夜中の散歩か」通信に、ミノスの声が入った。「灯を一つだけ点けて来るのは、腕のいい奴の癖だ。一人で来るのも」
ケイは答えなかった。灯室を右の爪で抱え、ハチを穴の口から離した。噴射を上へ吹かして、溝の縁から外へ抜ける。抜けられる高さだった。溝の縁まで、ハチの長さで四つ。
三つ目で、右の爪に何かが巻きついた。
索だった。溝の縁の暗がりに、ガルムの腹から離れた細い回収艇が一隻、灯を消したまま浮いていて、その舷に、無口な男が立っていた。男の投げた輪が、ハチの右の爪を、灯室ごと、手首の関節の所で締めていた。噴射を強くすると、索が張って、右腕の付け根が鳴った。付け根の駆動音が、半音下がった。
「動くな」ミノスの声は、低いままだった。「ドレの結びは、引けば締まる。そのまま吹かし続けたら、腕の付け根から先が、あいつの舷に残る。直したばかりの腕だろう」
ケイは噴射を止めた。左の爪の刃を索に当てた。
「切るなら、切れ。刃が索に届く前に、ドレが引く。引いたら、灯室があんたの計器盤に飛び込んでくる。硝子だぞ」
刃が止まった。止めたのは、ケイの指だった。
「その灯は、キサの航路のだ」ケイは言った。
「知ってる。切ったのは、こっちだ」ミノスは、あっさり言った。「通信に録っても構わない。拾った物の話を、拾った者がしてるだけだ。灯は漂ってた。台座ごと、ふらふらと」
「台座は、岩に打ってあった」
「打ってあった物が、今は漂ってる。それが漂流物だ」ミノスの声に、笑いは混ざっていなかった。「あんたは、腕がいい。網の索を二本、灯を揺らさずに切った。こっちの若いのなら、三本目で灯室を割ってる。だから、一人で来たんだろう。自分でやれば、一番きれいに済むから」
ケイは、黙っていた。黙っていることしか、手元に残っていなかった。
ハチの体が、じわりと引かれ始めた。細い艇の索が、ガルムの舷へ渡され、ガルムが動いた。重い。ハチの噴射を全部使っても、ガルムの推力の何分の一にもならなかった。家を曳いてきた艇が、闇の中を、後ろ向きに曳かれていった。
* * *
ガルムは、ハチを傷一つ付けずに、コロの丸い接岸口の前まで運んだ。
接岸口の灯の輪の中で、ドレが索を解いた。右の爪から輪が外れた。灯室は、爪の中に残されていた。
「一つは、持って帰れ」ミノスが言った。「残りの三つは、こっちの石代の担保だ。石代は倍にする。一便ごとに、六百」
「灯はロクに届ける」
「届けろ。拾った灯を届けたって、ロクは褒めてくれる。誰が切ったかは、灯には書いてない」ミノスは、少しの間を置いた。「溝は、うちの庭だ。あんたがあそこを知ってるのは、よく分かった。次に来るときは、灯を二つ点けて来い。見やすいから」
ガルムの船首の灯が消えた。黒い船影は、音も立てずに、影の側へ滑っていった。
ケイは接岸口の前で、ハチを止めたまま、操縦桿から手を離せなかった。右の爪の関節に、索の擦れた跡が白く残っていた。
顔を上げた。
ブロックAとBの丸窓に、灯りが点いていた。窓という窓に、人がいた。寝間着の人。子供を抱いた人。サエの子が、展望の窓に額を付けていた。ユイが放送室の窓から、身を乗り出すようにして見ていた。誰も、手を振っていなかった。夜中に、黄色い艇が、黒い船に曳かれて帰ってくるのを、コロの全員が見ていた。
接岸口の内側に、ヴィクが立っていた。上着を寝間着の上から羽織っていた。修理ベイの扉から剥がしてきた当番表を、ヴィクは片手に握っていた。「出るときは呼べ」の字が、ヴィクの親指の下で皺になっていた。接岸口の外には、影の側から急いで戻ってきたカンナが、灯を点けたまま浮いていた。
ハチを繋ぎ、座席から出た。灯室を抱えて、ヴィクの前に立った。言うことを探したが、喉は空のままだった。
ヴィクは灯室を見て、ケイの右の爪の擦れ跡を見て、それからケイの顔を見た。怒鳴らなかった。
「……あんた以外の人を、使いな」
読んでいただきありがとうございます!
「続きが気になる」「面白い」と思っていただけたら、ブックマークや下の★★★★★で応援してもらえると、とても励みになります。




