第94話 石代
修理ベイの朝一番に、ケイはハチの両腕を上げた。
上げる前に、左へ先に命令を出した。何年分もの癖だった。指が勝手にそうした。左の腕は、右より半拍早く動き出し、早く上がりきって、右が追いつくのを天井の下で待った。遅れていた腕が、今度は待っている。ケイは操縦桿から手を離し、掌を膝で拭った。
「早い」ケイは言った。
「早いのは、あんたの指」修理ベイの入口で、ヴィクが湯呑みを持っていた。「腕は、言われた通りに動いてる。直したのはハチで、あんたはまだ直ってない」
もう一度。今度は、左右に同じ瞬間に命令を出した。出すまでに、指の中で一拍、何かを我慢した。二本の腕が、同じ高さを、同じ速さで上がった。天井の灯りの下で、二つの爪の影が揃って床を横切った。
自室の机では、万力の口に、外した延長管が噛まされたままになっていた。一段高く回った輪の頂点に、テツが油性の印を付けてある。「なぜ」の下には、ケイの字で答えが書いてあった。二日前の夜、同じ机で、知らない回線からの声を聞いた。石代をもらう、と、その声は言った。
* * *
男は、食堂の入口で一度立ち止まり、床のテープを見下ろした。
黄色と黒の二本の線が、入口から廊下の奥へ延びている。男はそれを踏まずに、線の脇の白い床だけを選んで歩いてきた。靴は作業靴だった。爪先の保護板が、左右とも同じ角度に擦り減って、下地の鉄が覗いている。膝をついて何かを押す仕事を、何千回もやった靴だった。
「ここは食堂で、こっちは客だ」男はオトの前の台に硬貨を置いた。「煮込みを一つ。肉は小さくていい」
「肉は、今日は全部大きい」オトは柄杓を止めなかった。「小さく切り直すのは、手間の分だけ高くなるよ」
「なら大きいのを」
男は皿を受け取り、窓際の卓に座った。いつかラズが案内の紙を広げた卓と、同じ卓だった。ケイは厨房の脇で、壊れた湯沸かしの弁を分解していた手を止めた。止めてから、男の手を見た。両手の甲に、古い火傷の斑がある。指の節に、細かい白い傷。頬に一本、擦った古い線。カノンの横で、ヘルメットの奥に見た顔だった。あの夜の回線の、低い声の主だった。
「覚えなくていいと言ったが」ミノスは匙を持ったまま、ケイを見ずに言った。「覚えてたな」
「顔は、忘れない」
「黄色い艇の持ち主だからな。遅れる腕の」ミノスは煮込みを一口食べて、少し眉を上げた。「……今朝は、揃ってたな。外から見えた。うまいな、これ」
窓の外で、ポルカの船腹が丸い接岸口に付いていた。寄港日だった。エマは食堂の奥で、乗継の客の名簿をヨキと突き合わせている。ミノスの声が届いたのか、エマの指が名簿の上で止まった。
「話は短い」ミノスは匙を置いた。「キサからここまでの航路、灯の消えた区間がある。あそこに石が浮いてる。石ってのは、剥がれた板だの、折れた梁だの、流れてきた物のことだ。誰かが片付けなきゃ、いずれ船の腹を擦る」
「灯を切ったのは誰だ」
「片付けてるのは、うちだ」ミノスは質問を、聞こえなかったもののように流した。「だから石代をもらう。キサ便とホタ便から、一便ごとに三百。高くない。船の外板を一枚張り替える値段の、何十分の一だ」
エマが名簿を置いて、卓の前まで来た。靴音が、まっすぐだった。
「キサ線の乗継表は、私が書いた。あの航路は私の航路」エマは座らなかった。「石があるなら、私が避ける。避けられないなら、船を出さない。あなたに払うお金は、一枚もない」
「避けるのは、手間だろう」
「手間は、私の客のために払う」
ミノスはエマを見上げて、頷いた。値切られた職人のような、腹の立たない頷き方だった。それから、ケイを見た。
「払わない」ケイは言った。
「そうか」
それだけだった。ミノスは煮込みを最後まで食べ、皿の縁に残った汁を、パンで拭って口に入れた。オトが、それを見ていた。脅す言葉は一つも出なかった。灯のことも、板のことも、それ以上は言わなかった。代わりに、ミノスは立ち上がりながら、隣の椅子の背に手を掛けた。
二番の椅子だった。座面の低い、ケイが倉庫の鉄脚で組んだ一脚。
ミノスは椅子を引き寄せるふりをして、しゃがんだ。右の人差し指と親指が、脚と座枠をつなぐボルトの頭を挟んだ。工具は持っていなかった。指だけで、ボルトを一回し、回した。締めた本人のケイでさえ、指では回せない硬さのはずだった。
鉄が、小さく鳴いた。
「いい脚だ。溶接が素直だ」ミノスは立ち上がって、手を払った。「煮込み、ごちそうさん。次は、小さいのでいい」
靴が、テープの脇の白い床だけを踏んで、入口から出ていった。一度も、線に触れなかった。
食堂の音が戻るまでに、しばらくかかった。ヨキが名簿を丸めて握っていた。エマは入口のほうを見たまま、腕を組んだ。
「脅しに来たのね」
「何も言ってない」
「だから、脅し」
ケイは二番の椅子の前に膝をついた。ボルトの頭の横に、ケイが最初に締めたときの合わせ印が、細い塗料の線で残っている。その線が、一目盛り分、ずれていた。回されたのは、ちょうど一目盛り。緩めすぎれば、座った誰かが床に落ちる。これなら、座った誰かの体重で、脚がほんのわずかに傾くだけだった。気づく者にだけ分かる量だった。
指で触れると、ボルトの頭に、ミノスの指の温かさが残っていた。
テツが工具袋を持って、もう横に立っていた。ケイは顔を上げなかった。
「六角、四番」
テツが、黙って渡した。ケイは合わせ印を元の線に戻し、そこから、さらに半目盛り締めた。
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