第93話 直していいか
資格証は、薄い板だった。
ポルカの郵便袋から出てきて、テツの手に渡った。掌に収まるほどの大きさで、表にテツの顔と名前と登録番号、裏に点検の区分が刻んである。テツは板を両手で持って、表を見て、裏を見て、また表を見た。
「……正式です」
「見れば分かる」ケイは言った。
「分かるなら、何か言ってください」ユイが横から言った。
ケイは板を見た。テツの持っている板の角を、指で軽く叩いた。板は、硬い音を返した。
「修理ベイに来い。今日、署名が要る」
* * *
サエの子供は、共同室の本棚の前で、下の段の本を並べ直していた。
背が伸びていた。ここへ来た日には、ケイの後ろに隠れて、黄色い艇を動かす男の顔を確かめていた子だった。今は、本棚の二段目に手が届く。ケイは戸口で立ち止まり、それから中へ入って、子供の横にしゃがんだ。
「ハチの左腕を、直したい」
子供の手が、本の背の上で止まった。
「遅れる理由が、分かった。管の中に、泡がある。泡を抜いて、管を付け替えれば、遅れなくなる」ケイは言った。「前に、直さないでくれと書いたろう。だから、聞きに来た」
子供は、本を一冊、棚から抜いて、また戻した。サエが、部屋の奥から、こちらを見ていた。
「決めるのは、この子でいいんですか」サエが言った。「ハチは、管理人さんの艇でしょう」
「俺の艇だ。直したいのも、俺だ」ケイは子供の手元を見たまま答えた。「でも、あの左腕を好きだと書いたのは、この子だけだ」
サエは、口を挟むのをやめた。
「遅れるの、好きだった」子供が言った。
「知ってる」
「遅れても、最後まで振ってたから」
ケイは待った。子供は、本の背を指でなぞって、端まで行って、戻ってきた。
「遅れないハチも、見たい」子供は顔を上げた。「遅れてた管は、とっておいて」
「とっておく」
「捨てないでね」
「捨てない。俺は、捨てない人だ」
サエが、奥で小さく笑った。子供は頷いて、次の本を棚に差した。
* * *
修理ベイで、テツが資格証を作業台の上に置いた。その横に、点検の紙。区分は油圧。溶接で塞いだ点検蓋の開放と、管の交換。
若い保守員が、削り刃で溶接の玉を一つずつ落としていった。『開けるな』の字が、玉と一緒に削れて消えた。蓋が外れた。座席の裏の狭い暗がりに、延長管の輪が、灯りの下にむき出しになった。
新しい管は、ヴィクが規格の在庫から出した物だった。輪を作らず、座席の下を低く這わせて、大きい爪の付け根まで届く長さにしてある。一番高い所に、泡を逃がす小さな弁を付けた。
ケイは古い管の継ぎ目に、レンチを掛けた。自分の艇だった。テツは横で、手順を一行ずつ読み上げた。
「一、左腕の油圧を抜く。抜きました。二、管の両端の継ぎ目に、受けの布。置きました」テツは紙から目を上げた。「三、外す。ケイさん、どうぞ」
「いいのか」
「署名は僕です。手は、誰のでもいいです」テツは言ってから、耳を赤くした。「ヴィクさんの言い方を真似ました」
若い保守員が、横で、笑いを噛み殺していた。ケイは、レンチを回した。
古い管が外れた。輪の頂上から、油が一滴、浮き上がった。その中に、銀色の泡が一つ、閉じ込められていた。油の玉が、灯りの中で回りながら、作業台の上へ漂っていった。若い保守員が、布で受けた。
新しい管を付けた。泡抜きの弁を開けた。細い音がして、弁の先から、油と空気が交じって出た。空気が出きって、油だけが出た。弁を閉じた。
テツが、点検の紙の署名欄に、登録番号と名前を書いた。一番下の立会いの欄に、ケイの名前を書く欄があった。ケイは書いた。ほかの人にも読める字で。
「動かします」テツが言った。
ケイは座席に座った。操縦桿に、両手を置いた。右と左に、同時に、上げろと言った。先に出す命令は、なかった。
ハチの両腕が、上がった。
右と左が、同じ速さで。同じ高さで、同時に止まった。修理ベイの灯りの中で、黄色い二本の腕が、まっすぐ揃って、天井を指していた。付け根の駆動音が、左右で同じ高さだった。
修理ベイの窓の外に、サエの子供が張りついていた。子供は、ハチの腕を見上げて、それから、自分の両手を、頭の上へ上げた。右と左、同時に。
ケイは、座席の中で動けなかった。左の腕を、下ろさずに見ていた。先に出す命令のない手が、操縦桿の上で行き場をなくしていた。
「揃いました」テツが言った。
「揃ったな」
それから、腕を下ろした。両方、同時に下りた。窓の外で、子供も両手を下ろした。それから、もう一度上げた。ケイも、もう一度上げた。
* * *
夜、自室の机の前に座った。
万力の口を開けて、継手を外した。三回替えて、三回戻った継手だった。どこも悪くなかった継手は、部品箱の、使える物の段へ入れた。空いた口に、外した延長管を噛ませた。輪の形のまま、頂上を上にして。ハンドルを回すと、管の重さが、口の奥から掌へ伝わってきた。
紙を出した。『なぜ』の下に、線を引いた行が三つ並んでいる。継手。弁。油の粘り。胸のポケットから、鉛筆を抜いた。エマが操舵室で差し出した鉛筆だった。その下に、ケイは書いた。
『泡。座席の裏の左の管。前の持ち主が大きい爪に替えたときに足した管が、輪になって一段高く回っていた。一番高い所に泡が溜まる。腕を動かすと、油はまず泡を潰して、それから腕へ行く。それが半拍。継手は悪くなかった。見つけた人、テツ。とっておけと言った人、サエの子』
読み返した。ほかの人にも読める字だった。
端末が鳴ったのは、そのあとだった。知らない回線だった。音声だけで、映像はなかった。低くて、急いでいない声だった。
「航路の石を、片付けてるのは、うちだ」
ケイは鉛筆を置いた。
「漂流物が流れ込んだら、キサ便もホタ便も、腹を擦る。擦らないのは、うちが石をどけてるからだ。石代をもらう。一便ごとに」
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