第89話 実技
ナバの試験場は、解体場の裏手にあった。
白い壁の細長い建物で、廊下の片側に、試験室の窓が並んでいる。窓は厚いガラスで、中の様子は見えるが、音は通らない。受験者の家族や雇い主は、廊下の長椅子に座って待つ決まりだった。長椅子の脚の一本が短くて、座ると、端が沈んだ。
ケイは座らなかった。廊下の壁に背をつけて立ち、手を上着のポケットに入れ、出し、腕を組み、ほどいた。
「その手」
エマが、廊下の向こうから来た。ポルカの帰り便は十六時に出る。客の乗船が始まるまでの間、船を乗員に任せてきたのだという。
「どこに置けばいいか分からない顔、してる」
「顔は手じゃない」
「同じくらい、分かりやすいの」エマは長椅子の沈まないほうの端に座った。「十六時。受かっても、落ちても、十六時に出る」
「知ってる」
「知ってるなら、その手、休ませたら」
「休ませ方を知らない」
「見てた。休みを合わせた日も、あなた、手すりの索の編み目を、ずっと指で数えてた」エマは前を見たまま言った。「私の索なのに」
ケイは返事をせずに、壁から背を離して、長椅子の沈むほうの端に座った。座ると、端が沈んだ。エマの側が、指一本分、持ち上がった。
「主機、持っていかれたんですって」エマが言った。
「誰に聞いた」
「キサの客。黒い船が、夜に大きい物を曳いて、ガラ場の奥へ入っていったって。二人とも、同じ話をしてた」エマは膝の上で指を組んだ。「それと、七隻で客船を切ってる小さい船団がいる、って話も。そっちは、楽しそうに話してた」
「楽しくはない」
「客には、楽しく見えるの。あなたが困ってる顔は、客席の窓からは見えないから」
ケイは手を膝の前で組んだ。組んだ指が、勝手に一本ずつ動いた。長椅子の短い脚が、目に入った。上着のポケットに、薄い座金が一枚入っている。食堂の卓の脚に挟むために、いつも持っている物だった。ケイはしゃがんで、長椅子の脚の下に座金を差し込んだ。エマが座ったまま腰を浮かせ、また下ろした。長椅子は、もう沈まなかった。
「ありがとう」エマが言った。「私の椅子じゃないけど」
* * *
試験室の中で、テツが点検機を三つ、作業台に並べていた。
窓の上の画面に、点検機の映像が映る決まりだった。試験官は窓際に座り、腕を組んで、黙っている。テツが何か言ったのか、口が動いた。試験官は答えなかった。テツは頷いて、点検機を一つ取った。
「今の、自分に質問したのかな」エマが言った。
「たぶんな。減点されないといいが」
試験機は、背の低い箱だった。側面の小さな穴から、配管の束が見える。どこかに、見つけるべき物が一つ。
一つ目の灯りが入った。画面の中で、配管の表面が白く光った。二つ目。束の奥の暗がりが、輪郭を持ち始める。三つ目。灯りが三方向から、束の根元を照らした。影が潰れていく。左の影が消え、右の影が消え、奥の影が薄くなった。
一つだけ、消えなかった。
束の下、底板と一番下の管の間に、細い影が一本、残っていた。三つの灯りが、どの角度から当たっても、影は向きを変えるだけで、形を保った。画面の中で、点検機の腕が止まった。
ケイは長椅子から立ち上がった。窓のガラスに、自分の顔が薄く映った。
テツは動かなかった。試験官は、腕を組んだままだった。十秒。二十秒。ケイの指が、ガラスの手前で拳になった。
テツが、三つ目の灯りを抜いた。抜いた灯りの留め具を回し、首を大きく倒した。灯りの向きが、ほとんど真横になった。それを、試験機の底板すれすれの高さから、もう一度差し入れた。床を這うように。
画面の中で、底板の上を、光が低く滑った。
影が、立ち上がった。一本の細い影だった物が、光の真横で、長く伸びて、形を変えた。底板の上に、小さな出っ張りがあった。管の支えの金具が一つ、ボルトを一本失って、斜めに浮いていた。上からの光では、金具の影と管の影が重なって、一本に見えていた。
低い所から見たときだけ、見えた。セト配送所の冷凍庫の下で、ハチの低い目線が拾った影と、同じ角度だった。
テツが、作業台の紙に何か書いた。書いてから、点検機を三つとも抜いて、台に並べた。並べた位置を、指で直した。試験官が初めて腕をほどき、紙を受け取った。
ケイは、自分がガラスに額をつけていたことに気づいて、離れた。ガラスに、丸い曇りが残っていた。
「見えた?」エマが後ろで言った。
「見えた」
「何が」
「低い所」ケイは曇りを袖で拭いた。「上から見ると、二つが一つに見える。低い所から見ると、二つに分かれる。俺が冷凍庫の下で見た角度だ。あいつ、覚えてた」
「あなたが教えたの」
「教えてない。下に入っただけだ」
エマは、それ以上聞かなかった。時計を見て、立ち上がった。「十五時半。私は船に戻る。乗り遅れたら、置いていく」
「乗り遅れない」
「あの子もよ」エマは廊下の角で一度振り向いた。「受かった顔、あとで見せて。私の都合で」
* * *
十五時四十分に、試験室の扉が開いた。
テツが、紙を一枚持って出てきた。持っている手が、胸の前で止まっていた。紙の上端に、判が一つ押してある。廊下の灯りの下で、テツの耳が赤かった。
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