第88話 なぜ、の答え
テツの実技まで、あと六日だった。コロの修理ベイに、ハチが入っていた。台に固定され、座席の覆いを外してある。テツは点検機を三つ並べ、灯りの角度を一つずつ確かめていた。練習台が要る、とテツが言ったとき、ケイは自分の艇を出した。中まで知っている機械は、ほかにない。
「試験官は、黙って見てるだけなんです」テツは灯りの一つを外して、また付けた。「質問しても、答えてくれない。去年、隣の人が、答えてくれないのが怖くて、自分で自分に質問しながらやってたら、独り言で減点されたって。独り言、減点されるんですかね。僕、独り言、言うほうなんですけど」
「いま言ってる」
「これは、ケイさんに言ってます」
若い保守員が、紙の束を抱えて入ってきた。ハチの整備履歴を、事務室の棚から出してきたのだった。表紙の角が丸くなっていて、中の紙は何人もの持ち主の字で埋まっている。
「全部あります。いちばん古いのは、ケイさんの前の前の人です」
「読んだ」ケイは言った。
「全部ですか」若い保守員は、束の角を指で揃えながら聞いた。
ケイは答えなかった。束を受け取って、作業台の端に置いた。自分の三回の継手交換の行は、自分の字で、最後のほうにある。そこから前は、左腕の遅れの行を探して、拾い読みしただけだった。
「試験機は、配管の多い機械です。どこかに、見つけるべき物が一つある。見つけて、場所と理由を書く」テツは点検機の腕を曲げた。「ハチなら、ケイさんが知らない物は、ないですよね」
「たぶんな」
「たぶん、ですか」
「三回、戻った」
テツは手を止めて、ケイの顔を見た。それから、何も言わずに、座席の裏へ回った。
座席の背もたれの裏に、小さな排水孔がある。操縦席に結露した水を、艇の外へ逃がす穴で、指一本がやっと入る。テツは点検機の先を、そこへ差し入れた。細い胴が、穴の中へ吸い込まれていく。手元の画面に、座席の裏の暗がりが映った。
「灯り、一つ」
画面の中で、配管が並んでいた。一つきりの灯りが、管の表面を白く舐めていく。左右の腕へ行く油の管が、座席の下を抜けて、それぞれの腕の付け根へ伸びている。右の管は、まっすぐ付け根へ入っていた。左の管は、途中で、上へ曲がっていた。一度、座席の裏の高い所まで上がって、輪を描いて、下りてくる。輪の頂上は、右の管のどこよりも高い。管の太さも色も、そこだけ違った。後から足した管だった。
「これ、何ですか」テツが言った。
ケイは画面を覗き込んだ。見たことがなかった。継手は腕の付け根にあって、ケイは三回とも、付け根の覆いを外して、そこから手を入れた。座席の裏は、覆いの奥の、そのまた奥だった。
「灯り、二つ」テツの指が、二つ目の灯りを横から差し込んだ。
輪の形が、はっきりした。輪の頂上の手前に、平たい板があった。点検用の蓋だった。蓋の縁は、ぐるりと溶接で塞がれていた。溶接の玉の上に、何か硬い物で引っかいた字があった。
『開けるな』
「前の持ち主のですか」
「たぶん」ケイは作業台の端の束を引き寄せ、頁を前へ繰った。自分の字を越え、エマが突いた三回の遅れの行を越え、その前の、知らない字の頁へ。指が止まった。一行だけ、読み飛ばしていた行があった。『左腕爪、大型へ換装』。大きい爪に替えたとき、付け根の位置が変わって、管が届かなくなった。届かない分を、延ばした。延ばした管を、座席の裏の狭い所に、輪にして収めた。
ケイの手が、工具箱の蓋に掛かった。溶接を削る刃は、二段目に入っている。
「それ、開けたら駄目です」テツが画面から目を離さずに言った。「油圧の点検蓋は、有資格者の署名が要る区分です。筆記に出ました。三問目です。僕、まだ仮の登録もないです」
「見るだけだ」
「見るだけなら、灯りで見ます」テツの声は、いつもの早口だった。早口のまま、震えていなかった。「開けるのは、署名の後です。ケイさんの艇でも」
ケイは工具箱の蓋から、手を離した。離した手の置き場がなくて、台の縁を掴んだ。
「灯り、三つ」テツが、三つ目の留め具を指で回した。固かった。角度が、頂上の真下へ入った。
画面の中で、輪の頂上が、白く照らされた。透明な管の窓の中で、油が止まっていた。その一番高い所に、小さな銀色の泡が一つ、張りついていた。灯りの熱か、ハチの台の振動か、泡は画面の中で細かく震えていた。
「ケイさん、左の腕、動かしてもらえますか。ゆっくり」
ケイは修理ベイの操作盤から、左腕を上げた。泡が、動いた。油に押されて、頂上から滑り落ちかけ、また頂上へ戻った。管の中で、泡が縮み、それから膨らんだ。腕が上がりきったとき、泡は元の大きさに戻っていた。ケイは、腕の付け根を見た。半拍、遅れていた。遅れの間、泡は縮んでいた。油の力が、まず泡を潰すのに使われていた。潰し終わってから、腕へ行く。
継手ではなかった。三回替えた継手は、三回とも、正しい継手だった。万力の口で、手で動かして、遅れなかった継手だった。
「……泡か」
「泡です」
ケイは操作盤の把手を戻し、もう一度、左腕を上げた。画面の中で泡が縮み、縮みきってから、腕が半拍遅れてついてきた。
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