第86話 残圧
テツの筆記の結果は、ガラ場へ発つ朝に届いた。
「通りました」通信の画面の中で、テツはナバの試験場の廊下に立っていた。後ろを、揚げた魚の皿を持った受験者が通り過ぎていく。「点は、ぎりぎりでした。署名の書式の問題で、一問、立会いの欄を上に書きました」
「下だよ」ヴィクが横から言った。
「下です。書いたあとで気づきました」テツは頭を下げた。「実技の枠は、十二日後です」
ケイは画面に向かって頷き、「そうか」とだけ言った。
「はい」テツは、それで足りたという顔をした。「揚げた魚、食べませんでした」
「食べてよかったんだぞ、通ったんだから」ユイが画面の端から割り込んだ。「帰りに一皿、持って帰ってきて。骨ごと」
* * *
ガラ場のカノンの横に、七隻が並んだ。
ヴィクはボウの船室に乗ってきた。コロを出るのは、ケイが知る限り、三度目だった。出る前に、窓棟から南棟まで、盤の蓋を全部開けて、裏の字を若い保守員と一緒に読み上げてきたという。
居住ブロックAの付け根は、太い管と梁の塊だった。背骨からブロックへ、空気と水と電気の管が束になって入っていく。その束の根元に、円筒形の容器が二つ、帯で留めてあった。塗装が剥げ、表示板の字は半分読めない。
最初に、ブンが継ぎ目へ入った。カンナは小さな艇で、ハチよりさらに一回り細い。老人は艇の腕の先に隙間計りを握らせ、継ぎ目の端から端まで、一枚ずつ差し込んで測っていった。測った数字を、回線に読み上げる。その声だけが、回線に続いた。
「開いてる所はない。ずれてもない。この船は、繋ぎ方がいい」ブンは言った。「昔の船は、こうだった」
ケイはハチで、容器の前に出た。
容器の口の弁は、固く締まっていた。圧力計の針が、白い線より上で止まっている。中にまだ、ブロックを満たしていた頃の空気が、押し込められていた。弁は古い型で、ケイの工具箱の中に、これを開けられるレンチが入っている。手の届く距離だった。
「触るなよ」ヴィクの声が来た。
「触ってない」
「指が動いてる。映像で見えてる」
「このレンチなら、三分で開く」
「三分で開けて、三分で誰かの顔に霜が付く」ヴィクは宇宙服の留め具を、自分の指で確かめていた。「開けられる人と、開けていい人は、別だよ。今日の開けていい人は、私一人」
ケイは操縦桿から、指を一本ずつ離した。
ヴィクは宇宙服で、ボウの船室から出てきた。動きは遅かったが、手順は、テツが電気室で一息に言ったとおりだった。表示を読み、読んだ上で信じず、容器の計器を自分の圧力計に付け替える。逃がし弁の先を、誰もいない闇のほうへ向ける。リレーの電気で、ブロック側の回路を先に殺す。
「四秒」リレーの船長が言った。「……止めた。戻さない」
最後に、弁。ヴィクの手袋が、ゆっくりハンドルを回した。
音はなかった。逃がし弁の先から、白い霧が一筋、闇へ伸びた。凍った空気が、灯りの中できらきら光って消えていく。針が下がった。白線を切り、目盛りを刻んで落ちていく。ケイは座席の中で、自分の指が膝の上で拳になっているのに気づいた。
針が、零で止まった。
「十分、待つ」ヴィクが言った。
「待つの、長いね」コマが小声で言った。
「短いほうだ」ブンが答えた。「戻ってきたら、もっと長い」
ケイはその十分の間に、ハチを継ぎ目の反対側へ回し、ブロックの内側を覗いた。
大広間だった。天井が高く、壁に沿って二階の回廊が巡っている。床の固定具から外れた椅子が、何十脚も宙に浮いていた。背もたれを上にしたもの、脚を天井へ向けたもの。ハチの灯りが入ると、椅子の影がいっせいに壁を滑った。正面の壁に、大きな丸い時計があった。針は、どこかの年の、どこかの夕方で止まっていた。
「戻ってこない」ヴィクの声がした。針は、零のままだった。「署名する」
ヴィクは容器の帯に、書式の紙を留めて、一番下の欄に名前を書いた。書いたあとで、その紙を手袋の指で一度、軽く叩いた。
* * *
作業は日の区切りで止めた。一つ目の容器は抜け、二つ目は明日に回した。ヴィクは明日の朝、ポルカの戻り便でコロへ帰る。
船団の窓が回線に並んだ。コマがオトの包みを開けて、中身の多さに黙った。
「夜の見張りを置くか」ブンが言った。「俺が起きてる。年寄りは、どうせ眠らない」
「置かない」ケイは言った。「夜は休む。全員だ。明日、手が震えたら、残圧の前で困る」
「黒い船が、そのへんにいる」
「いるのは分かってる。入札は取った。取った物に、手を出したら、管轄が動く」
ブンの窓は、返事より先に閉じた。
ケイは回線の呼び出しを、朝まで切った。皆が寝られるように。座席を倒し、ハチの灯りを落とした。窓の外で、カノンの白い腹が、星明かりを鈍く返していた。
カンナの操縦席で、ブンは寝袋に入らなかった。手書きの海図を膝に広げ、赤い線を指で辿っていた。その指が止まったのは、夜の真ん中だった。窓の外、カノンの反対側で、灯りが一つ、動いていた。作業灯の灯りだった。航行灯のない船の、たった一つの灯りが、白い船体の縁を回り込んで、向こう側へ消えていった。
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