第80話 値段と、休み
休みの朝、ケイは工具袋を部屋に置いて出た。
扉は、まだ閉まらなかった。蝶番の片方が、枠と合っていない。閉めると、指二本分の隙間が残る。その隙間から、机の上の万力が見えた。口には、ハチの左腕の継手を噛ませたままだ。その脇の紙の『なぜ』の下に、消した線が三本並んでいる。直すのは、明日にした。
上着のポケットに、手を入れた。工具はなく、黒いペンが一本入っていた。ユイが床のテープに線を引かせるときに使うペンで、先週、客の廊下で拾って、返しそびれていた。
食堂の前を通ると、ユイが床にしゃがんでいた。北宿舎の東の廊下の方へ延びた黄色の、最後の区画を指で押さえている。
「五百十九」ユイは顔を上げずに言った。「今朝、トバの宿舎の二組目が入った。黄色、また角を曲がったよ」
「今日は、数えない」
「知ってる。だから、私が数えた」ユイは立ち上がって、ケイの上着を見た。「工具、持ってない。えらい」
「ポルカに行く」
「エマさんの斜線の日でしょ。番組で言っていい?」
「駄目だ」
「じゃあ、言わない。夕方の雑談は、今日は天気の話にする。コロに天気はないけど」ユイは黒いペンを探して、自分のポケットを叩いた。「あれ、ペン一本、どこ行ったかな。ケイ、知らない?」
「知らない」ケイは言った。上着のポケットの上から、手のひらで押さえた。
* * *
ポルカは、丸い口に一隻だけで止まっていた。
乗員はいなかった。エマの休みの日で、乗員も休みで、客もいない。客席の灯りは落としてあり、操舵室にだけ、灯りが点いていた。
エマは、操舵室の席に座っていた。制服を着ていなかった。灰色の、膝の抜けた作業ズボンに、袖をまくった厚手のシャツ。髪を後ろで一つに縛っている。いつも耳に挟んでいる鉛筆が、今日は、胸のポケットに差してあった。
「休みの日に、船を出すのか」
「自分の船を、自分のために飛ばすの。客のためじゃなく」エマは操舵輪に手を置いた。「それが、私の休み。乗って」
ケイは、操舵室の副席に座った。ハチの座席よりずっと柔らかい。背中が沈みすぎて、落ち着かなかった。窓の下に、手すりの索が一本、横に張ってある。揺れたときに掴むための索で、編み目が手の脂で黒く光っていた。ケイは、その索に左手を掛けた。
ポルカが、丸い口から離れた。
エマの操船は、速くなかった。急がない船の、急がない離れ方だった。操舵輪を持つ指が、ほとんど動かない。動かないまま、船が曲がる。ケイは、その指を見ていた。見ていることを、エマは知っていて、何も言わなかった。
「遅いな」ケイは言った。
「ハチは、急ぐ船でしょう」エマは前を見たまま言った。「ポルカは、客が眠れる速さで飛ぶ。今日は客がいないけど、手の癖は抜けない」
「眠ってもいいのか」
「眠ったら、怒る」
コロが、窓の中で小さくなっていった。
岩の南の端に、丸い口。北の端に、新しい口と、保温帯の緑の粒。その間を、窓の列がつないでいた。旅客の窓、食堂の窓、南棟、東宿舎、窓棟、北宿舎。その先に、窓が二列、横に長く並んでいる。真ん中を橙色の線が横に切った、六十四人棟の窓だった。さらにその先、北の口の脇に、トバから曳いてきた宿舎が二棟、並んで灯りを点けていた。
窓の列が、岩の端から端まで、切れずに続いていた。ハチの窓から見るときよりも、ずっと遠くから。ずっと、一度に。
「線になった」操舵輪の上で、指を動かさないまま、エマが言った。「ナバからの連絡便で来たときは、点だった。買った顔を見に来た日。窓が、ぽつぽつ」
「魚の店で、数えるなと言われた」
「今日も数えないで」エマは言った。「数えなくても、線は線」
ケイは数えなかった。数えないで見ると、窓の列は、岩の上に引かれた一本の細い黄色い線に見えた。食堂の床のテープと、同じ色だった。
操舵輪から片手が離れた。
エマは、その手で、操舵室の壁の、小さな留め板を指した。そこに、紙が一枚挟んである。違約金の請求書の控えだった。ケイが払って、送り返した物だった。支払いの欄に、赤い印が押してある。『支払済』。印の横に、エマの字で日付。
「取っておいたのか」
「取っておいた」エマは手を操舵輪に戻した。「値段は、これからも曲げない。あなたの口が、また冷えたら、また満額で書く」
「知ってる」
「知ってて、それでも寄らせるの」
「曲げたら、困る」ケイは言った。「曲げない人の船が寄る港だって、キサの人が言ってた。だから乗り換えるって」
窓の外を、エマは見ていた。コロの窓の列が、ポルカの船首の先で、ゆっくり向きを変えていく。
長い間、どちらも何も言わなかった。
機関の低い音がしていた。操舵室の床から、それが靴の底へ伝わってくる。ケイは手すりの索を握っていた。握っているつもりはなかったのに、指が、編み目の一つ一つを数えるように動いていた。
操舵室の壁にも、週間航路表が一枚、小さく貼ってあった。透明な板に、油性の鉛筆。来週の欄に、太い斜めの線が一本。何度も引き直して、艶が出ている線だった。その同じ日の欄の下の方に、細い斜めの線が、もう一本引いてあった。細くて、一度しか引いていない。まだ艶がない。
ケイの休みの線だった。十日前、休みの日を決めて、一行だけ送った。『日付は、あんたの線の日』。返事は来なかった。来ないまま、表に書き写されていた。
ケイは索から手を離した。
上着のポケットに、黒いペンがあった。指が、それに触れた。床のテープに、自分の十センチを引くためのペン。コロに住む人が、膝をついて引くペン。エマの靴は、いつも黒い線の手前で、半歩引く。ペンを握った。握ったまま、ポケットから出さなかった。
代わりに、口が動いた。
「エマ」
「なに」
「俺は、あんたが好きだ」
言ってから、喉が乾いた。言う前より、ずっと乾いた。エマは、窓の外を見たままだった。操舵輪の上の指に、一度だけ力が入った。
船が、まっすぐ進んでいた。
「……知ってた」エマは言った。声が、いつもより低かった。「魚の店の、コースターの時から」
「そんな前か」
「値段は、曲げない」
「曲げなくていい」
胸のポケットから、エマは鉛筆を抜いた。操舵輪から片手を離して、壁の航路表へ伸ばす。細い方の斜線の上を、鉛筆の先でなぞった。一度。二度。細い線が、太い線と同じ太さになるまで。それから、鉛筆を、ケイの方へ差し出した。
「休みは、合わせる」
ケイは鉛筆を受け取った。エマの指が、鉛筆から離れるのが、半拍遅れた。受け取った鉛筆は、握っていた手の温度のまま、温かかった。ケイは、それを上着のポケットに入れた。ポケットの中で、黒いペンと鉛筆が、小さくぶつかって鳴った。
操舵輪に、両手が戻った。ケイは、手すりの索に手を戻した。二人とも、それきり、手を動かさなかった。窓の中で、コロの窓の列が、少しずつ大きくなっていく。
* * *
帰りの航路で、ポルカはナバ寄りの区間を回った。
航路灯の列が、闇の中に点を並べていた。等間隔の点が、コロへ向かって細い線を作っている。客を乗せている日には、エマはこの灯を一つずつ確かめて飛ぶのだと、前に聞いたことがあった。
窓の外で、エマの目が止まった。
操舵輪を持ったまま、エマは顎だけで、窓の左の方を指した。点の列に、一つ分、隙間があった。前後の灯は点いている。その間だけ、闇が一つ分、長い。
「昨日まで、点いてた」
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