第8話 船長の値段
接岸口の扉の脇に、青い塗料で『停泊無料』と抜いた板が掛かっていた。
ステンシルの縁はきれいに立ち、乾いたばかりの字が、廊下の灯りをうっすら返している。ケイは一歩下がって出来を見た。無料の二文字だけが、ほかより一回り大きい。
「それ、消して」通信機から、エマの声がした。「今、ナバの掲示板に載ってる。停泊無料、K-441。見た。うちは寄らない」
「寄ってもらうための無料だ」ケイは板の縁を、指で叩いた。青い塗料は、爪に移らない程度に乾いている。
「無料の港に、ろくな船は来ない。最後に寄った無料の所は、トロール船が九日、うちの停泊位置に居座った。文句を言える相手がいなかった。無料だったから」
「九日は長いな」ケイは板の前で腕を組んだ。無料と書いた自分の字が、急に軽く見えた。
「長かった。その間、乗員は休んで、積み荷は待って、私の帳簿だけが動いてた」次の予定でも読み上げるような調子だった。シンナーの缶を取り、布に染ませた。板の上の『無料』を拭くと、青い字が伸びて、滲んで、消えた。乾く前でよかった。
「来てほしい港ほど、値段を書くの。何を頼めば、何時に出られるか。それが決まってれば、私は寄る」
「何を決めればいい」ケイは布を持ったまま、板に向き直った。
「枠。二時間、一隻分。前の一隻には、時間で終わる仕事しか入れない。私が遅れたら連絡する。あなたが遅れたら、私はその時点で出る」
「延ばされるのは、俺の側だけか」ケイは白いチョークペンを、指の間で回した。
「私の側は、ナバへ戻るだけ」条件の順番は、エマが決めていた。ペンを握り直して、板に書いた。接岸と陸電で六百。船底の放熱板の清掃で二千四百。飯は別。数字が二つ並ぶと、板が板らしくなった。
「放熱板、外からやれる?」
「ハチで寄る。船を止めたまま、板の縁を拭く」ケイは頭の中で、ハチの腕の長さを船底に当てた。
「二時間の内に終わる?」
「終わらせる。そのための枠だ」そこだけは、すぐに答えた。
「いいわね」
「試しに一回、無料にできないか」ケイは布を畳みながら訊いた。
「無料は、今、消したところでしょう」エマの調子は変わらない。布を持った手を、ケイは下ろした。
「試行を二回。間隔は七日。検査が通らなければ、一回目は延ばす。それでいいなら、この条件で契約する」
「割引は」ケイは指を一本立てた。
「しない」
「二回目だけでも」指は二本になった。
「しない」エマはそこから、一ミリも動かなかった。青の跡が薄く残る板に、ケイは目を落とした。消した跡は、新しい札の下地にちょうどいい。それが一番安いと、頭のどこかが計算していた。指のほうは、もう布を畳んでいる。
「分かった。その条件でいい」ケイは畳んだ布を、シンナーの缶の上に置いた。
「契約書は送る」通信が切れた。板には、自分の書いた数字が残った。無料と書いた指と、無料を消した指は、同じ指だった。
* * *
夕方、床の白いテープを辿る足音が近づいてきた。テープは食堂の入口から始まっていた。黄色く塗られたのは、十七人分。その先に白いままの帯が二百八十三人分、廊下を這って、接岸口の扉の前まで伸びている。そこへ、革靴の音が重なった。
清算担当は、電話の声よりずっと若い男だった。書類鞄を提げ、半歩後ろに、もう一人の男を連れている。
「ケイさん。ご紹介します。視察の方です。今日は、見学だけ」
「ラズと言います。回収会社で、買い付けを担当しています」三十代半ばの男だった。革の靴で、廊下の継ぎ目に爪先を引っかけなかった。壁に掛かった板の文字を、ちらりと見る。「停泊の料金表。いい書き方ですね。何を頼めば何時に出られるか、それが読める。運用を考えている人の字だ」
「船長に書かされた」ケイはチョークペンを、板の下の受け皿に戻した。
「書かせた側の勝ちですよ。あの条件なら、船は安心して寄れる」ラズは料金表の前を離れ、接岸口の扉まで歩いた。縁に取りつけたばかりの新しい留め具の爪を、指の節で軽く叩く。乾いた、澄んだ音がした。「いい音だ。よく残ってる」
「新品だからな」ケイは腕を組んだまま、ラズの指の動きを目で追った。
「新品の音とは違うんですよ。この座金、使った分だけ鳴らなくなる。ここは、使う前に止まっていた」腰を折って、留め具の根元を覗き込んだ。手袋はしていなかった。それでいて、指が汚れる場所には、決して触れなかった。物を見る手だった。値段を知っている手でもあった。
「回収会社って、何を回収するんだ」ケイは、ラズの手から目を離さずに訊いた。
「使い終わった場所を、使える部品に戻す仕事です」ラズは立ち上がりながら答えた。「あなたと同じですよ。回収と曳航、六年。同業です。大きさが違うだけで」
「調べたのか」ケイの声が、一段低くなった。
「売る物の来歴を調べるのが、買い付けの仕事ですから。管理人の来歴も、物のうちです」ラズは笑った。嫌味のない笑いだった。手強いのは、こういう笑い方をする相手だ。ケイは布を持ち直した。
ラズは、書類鞄の男を振り返った。「期限の延長条項は」「ありません」と若い男が答えた。「失効したら、購入の優先は」「消えて、次の買い手に移ります」「なるほど」ラズはそれだけ確かめて、その話をもう繰り返さなかった。床のテープに視線を落とし、靴の先で、黄色と白の境目を辿る。二百八十三人分の白が、角を曲がって先へ続いている。ケイの黄色は、そのいちばん手前にあった。ラズが顔を上げた。店で棚の品を指すときの声だった。
「これ、買えるんですか」
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