第77話 トバの職員宿舎
シノの通信は、いつも紙の音から始まった。
「規則から申し上げます」画面の中で、シノは机の上の書類の角を、両手でとんと叩いた。「トバ保守港の閉鎖は、予定より早まりました。運営会社の決定です。閉鎖に伴い、付帯設備の払い出しを前倒しします。そちらに関係するものが二つ」
「アーチの期日は」
「変わりません。二百七十日目。それは別の紙です」シノは書類を一枚めくった。「一つ目。職員宿舎が二棟。各五十人。現状のまま。二つ目。余剰の避難艇が二隻。各百席。検査記録つき」
ケイは画面の横に、手元の紙を引き寄せた。六十四人棟が付いて、容量の欄は一段上がった。その一段に、住む人の数が、もう指一本の幅まで迫っている。
「職員の家族が、コロへ移りたいと言っています」シノは続けた。「私の仕事ではありません。けれど、窓口に三度、同じ質問が来ました。規則の外のことなので、紙にはしません。口で申し上げます」
「誰が聞いてきた」
「トキです」シノは言った。「三度とも」
* * *
ヴィクは、紙の上で指を二本立てた。
「順番は一つ。避難が先。部屋はその後」
食堂の卓の上に、コロの避難の図が広げてあった。一号艇、二号艇、受け架のモジュール。どれも、数字の横にヴィクの字で丸が付いている。丸の横に、今の居住の数。その差は、指で挟めるほど細かった。
「宿舎を先に付けたら、人が先に入る」ヴィクは言った。「人が先に入ったら、避難の席が足りない日が一日できる。その一日に何かあったら、あんたは一生、その一日の話をすることになる」
「避難艇を先に買う」
「避難艇を先に買って、検査を通して、受け架を作って、それから宿舎」ヴィクは指を一本ずつ折った。「受け架は、北の口の脇に作れる。杭が使える。あの杭、今のところ、全部あんたの味方だね」
「全部かどうかは、まだ分からない」
「分からないなら、テツに見させな」ヴィクは紙を畳んだ。「杭の根元の写真、全部。影のない角度で」
運転口座の画面を開いて、すぐに閉じた。細い。避難艇二隻を引けば、さらに細くなる。宿舎を引けば、線になる。ケイは閉じた画面の上に、掌を伏せた。線でも、まだ切れてはいない。
* * *
テツは、杭の写真を、端末の容量がいっぱいになるまで撮ってきた。
北の口の脇から、溝の口の奥へ向かって、一本ずつ。点検機の灯りを三つ使い、根元の影を三方向から潰してある。修理ベイの作業台に、テツは端末を置き、写真を一枚ずつ送っていった。
「全部、錆は表面だけです。根元の割れもなし。岩との境目も、動いた跡なし」テツは早口だった。「受け架の爪を掛けるなら、手前の四本で足ります。四本とも、僕、自分で揺すってみました。ハチで。あ、ハチは、ケイさんがいない間に若い保守員さんに出してもらって、許可は取りました。取りましたよ、ちゃんと」
「分かった」
「それで」テツは写真を先へ送った。溝の口から、ずっと奥。三本目の杭だった。「受け架には関係ないんですけど、ついでに撮った奥の方で、これだけ、頭の溝に擦れ跡があります。新しいの。粉が落ちて、地金が、ぐるっと一周光ってます」
ケイは写真を引き寄せた。杭の頭の溝に、細い銀色の輪が一本、巻きついたように光っていた。索を掛けて、強く引いた跡だった。トバへ行く日に溝を近道に通って見た擦れ跡と、同じ杭だった。あのときの記録は、ハチの中に残したまま、まだ誰にも見せていない。
「その杭は、触らずに置く」ケイは言った。
「触らずに、ですか」
「誰かが触ってる。触ってる奴が、次にいつ来るか、見たい」
テツは写真を見て、それからケイを見た。耳の先が、赤くなっていた。
* * *
トバの職員宿舎は、アーチの枠の根元に張りついていた。
ケイはハチを宿舎の前に止め、連絡通路から中へ入った。玄関の床は、灰色の樹脂だった。扉の内側の、靴を脱ぐ場所の床だけが、色が違っていた。擦れて、白っぽく光っている。何十年分もの靴の底が、同じ場所で止まり、同じ向きに回って、中へ入っていった跡だった。
ケイはしゃがんで、その擦れ跡に指を当てた。
縁が、なめらかに丸まっていた。一番深い所は、扉から半歩の位置にある。右足で止まり、左足を引いて、体を回す。そういう擦れ方だった。アーチの整備腕の操作席で見た、把手の擦れ跡と同じだった。同じ人たちの手と足が、何十年も、同じ所を同じ向きに擦っていた。
「靴を見てるのか」
トキが、廊下の奥から出てきた。作業着の上に、古い防寒の上着を羽織っている。手には、布の袋を一つ提げていた。
「床を見てる」
「同じだ」トキは玄関の擦れ跡の上に立った。右足で止まり、左足を引いて、体を回した。擦れ跡の一番深い所に、トキの靴の底がぴたりと収まった。「四十年。朝はここで靴を履いて、枠に出た。夜はここで脱いだ。脱ぐ場所が同じなら、体が、今日も枠に出たと分かる」
「この宿舎を、コロへ持っていく」ケイは言った。「避難艇が先だ。部屋はその後」
「聞いてる。シノが、紙にしないで言ってた」
「職員の家族は、何人来る」
「全部は来ない。来る者は来る」トキは布の袋を持ち直した。「来る者の中に、俺も入ってる。女房と、息子の家族と」
ケイは、玄関の擦れ跡を見た。この床ごと、持っていくことになる。
「アーチは、まだ動かせない」ケイは言った。「期日までに紙が通っても、曳くのは、その先だ。何日先か、分からない」
「分かってる」トキは、布の袋をケイに差し出した。受け取ると、中で金属が鳴った。スパナだった。トバの操作室でケイが磨いて返した物が、布にくるまれて入っている。「これは、向こうで使う。向こうの岩の枠で」
トキは靴の擦れ跡の上に立ったまま、玄関の外の、アーチの白い枠を見上げた。
「アーチより先に、俺が行く。向こうで待つ」
ケイは袋の口を握り直した。布越しに、磨いた柄の冷たさが掌へ伝わってきた。トキの靴は、擦れ跡の一番深い所に収まったままだった。
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