第74話 橙の線の家
リムの保守施設は、半分、灯りが消えていた。
ハチの窓から見ると、足場の列が、奥から順に暗くなっている。暗い区画には、もう何も繋がっていない。残った区画の端に、あの棟があった。窓が二列。上の列にも下の列にも、灯りが点いている。点いていない窓の方が少なかった。
窓の真ん中を、橙色の線が横に走っていた。
塗料は色が褪せて、端が剥げかけていた。それでも、一枚の窓を二つに割る高さは、どの窓も同じだった。切る位置を示すために引かれた印が、切られないまま、住宅の窓に残っている。ケイがかつて写真の上に赤で引いた縦の線は、当然ながら、どこにもなかった。あの線は、紙の上にしか引いていない。
ハチを足場の脇に寄せると、窓の一つで、子供が手を振った。その隣の窓で、老人が、窓枠に肘をついてこちらを見ていた。
* * *
ラズは、棟の管理室で待っていた。
机の上に、紙が一枚だけ置いてある。灰色の上着の袖口が、机の縁と平行になっていた。ケイが入ると、ラズは立ち上がって一礼し、机の脇の椅子を手で示した。ケイは座った。今日は、時計を背にしても構わなかった。
「リムの施設は、年内に完全閉鎖が決まりました」ラズは言った。「この区画の土地の賃貸は、来年はありません。棟は、どこかへ動かすか、ばらすか。住んでいる方には、先月お知らせしました」
「住人ごと、売ると聞いた」
「ええ。棟と、今の入居契約と、住んでいる方の意向の一覧」ラズは紙を、ケイの前へ滑らせた。「半数の方が、コロへ移る意思をお持ちです。残りの方には、ナバの東の別の棟を、私の方でご用意しました。そちらの方が、賃料は安い」
ケイは一覧を見た。名前の横に、丸と三角が並んでいる。丸の方が、わずかに多かった。
「値段は」
「こちらです」ラズは一覧の下の欄を指した。「値引きはいたしません。それと、入居の際にお約束した条件が一つあります。転居の費用は、当社が持つ。これは、住んでいる方との約束ですので、買い手に引き継いでいただきます」
「俺が払うのか」
「あなたが払うのです」ラズは頷いた。「コロへ移る方の分を」
ケイは紙を持ち上げた。値段の欄と、転居の欄を、順に見た。運転口座の細さが、指の先に戻ってきた。値段は、どこにも曲がりがなかった。ラズが自分で引いた線が、自分で引いたとおりの位置にある。
「なぜ、俺に売る」
「あなたが一番高く買うからです」ラズは言った。「ばらして売れば、今日より高い値が付きます。けれど、ばらすには、住んでいる方に出ていっていただく手間と時間が要る。住人ごと引き取る方は、今のところ、あなたしかいません。手間と時間の分だけ、あなたの値が、ばらした値に届いている」
「正直だな」
「値段は、正直でないと、次に使えません」ラズは、机の上で指を組んだ。「それに、あなたの岩の外壁と倉庫Bの床を、私はもう借りています。その日の値段で。借りている相手に、嘘の値は付けません」
ケイは紙を置き、机の木目を目で辿った。木目の一本が、机の端で途切れて、継いだ跡がある。誰かが、割れた天板を継いだのだ。継ぎ目の上を、ラズの袖口が、さっきからずっと避けていた。
「買う」
「ありがとうございます」ラズは一礼した。顔を上げたとき、その目は、ケイの肩越しに、管理室の窓の外を見ていた。窓の外に、棟の窓の列が見えている。
* * *
棟の中の廊下は、コロの廊下より天井が高かった。
ラズが先に立って歩いた。床は拭かれて、壁の掲示板には、入居者の集まりの日付が貼ってある。扉の一つが開いていて、中で、女が荷造りの箱に布を詰めていた。女はラズを見て会釈し、それからケイを見て、手を止めた。
「コロの人?」
「そうだ」
「向こうの部屋の窓は、どっち向き?」女は箱の上に布を置いた。「ここは、朝になると、窓の下の方から明るくなるの。リムの灯りが、下から来るから」
「コロの窓は、岩の向きで決まる」ケイは言った。「この棟は、この棟のまま付ける。窓の向きは、ここと同じだ。下から来る灯りは、コロにはない。北の口に着く船の灯なら、窓の端を横切る」
女は、少し考える顔をした。「船は、何時に来るの」
「表で決まってる。船長が決めた」
「なら、時計になるわね」女は布を箱に押し込んで、蓋を閉めた。
ラズは廊下の先で待っていた。女の部屋の前を通り過ぎるとき、ラズは扉の枠を、手の甲で軽く二度叩いた。音を聞いている叩き方だった。
「この棟の継ぎ目は、全部、音で分かります」ラズは歩きながら言った。「誰が継いだか、いつ継いだか。あなたの岩の継ぎ目と、同じです」
「値段に入ってるか」
「入っています。いい継ぎ目の分だけ、高い」
* * *
帰る前に、資材所の古い担当が、足場の上で声を掛けてきた。
「あんた、前に、三十二人棟を曳いてった人だろ。あの引き出しの絵、覚えてるか。名前の最後の字が擦れてたやつ」
「覚えてる」
「持ち主に、届いたよ。先月」担当は、それだけ言って、手を振った。
ケイは足場を歩いて、棟の外壁に近づいた。窓の下に、固定用の金具が並んでいる。数えると、八つあった。どれも、ハチの指の幅で、ちょうど掴める位置に。その上の窓を、橙の線が横に割っていた。
ラズが、管理室から出てきていた。革靴で、足場の梁の上だけを正確に歩いてくる。ケイの隣で止まり、同じ窓を見上げた。
「その線、消さないんですか」ラズが言った。「塗り直す費用くらいは、転居の費用に含めてもよろしいですよ」
「消さない」ケイは窓を見たまま言った。「俺が負けた線だ」
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