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星を買うには三百人  作者: 雅龍(がりゅう)
第6章 港より先に、航路を売る

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第72話 二隻が並ぶ朝

 朝の便が来る前に、ケイはハチで外へ出た。


 コロの影の側の時間だった。北の稜線は黒く、溝の口の岩肌も黒い。その黒の中に、新しい環だけが、保温帯の小さな表示灯を点々と灯していた。十二の爪の根元ごとに、緑の粒。影の側で、緑は暖かい色に見えた。


 ケイはハチをコロから離した。岩が小さくなる。窓の列が、稜線に沿って光っている。南の端に丸い口、北の端に新しい口。その間を、住宅の窓が、途切れずにつないでいた。旅客の窓、食堂の窓、南棟、東宿舎、窓棟、北宿舎。黄色いカーテン、青いカーテン、何も掛けていない窓。


「ポルカ、接近」ユイの声が、放送室から入った。背後で番組の音楽が小さく鳴っている。今朝の放送は、到着の実況に切り替えてあった。「マズルカも、見えてる。二隻、同時!」


 右手から、白い船体が来た。ポルカだった。黄緑の線が一本、船腹を横切っている。左手、北の闇の中から、青い帯の小さな船。マズルカ。二隻とも、エマの表の時刻どおりに、それぞれの口へ向かって、まっすぐ入ってくる。


 ケイは、どちらにも寄らなかった。両方が見える位置で、ハチを止めた。


「ケイ、何か言って。放送に乗せる」


「言うことはない」


「ないなら、見えてる物を言って。聞いてる人は、見えてないんだから」ユイの声が、早口で重なった。「北宿舎の人、窓に張りついてるよ。食堂の人も。オトさんまで、鍋ほっぽって丸窓に行った」


 ケイは、見えている物を言った。「白いのが、南の口に入る。青いのが、北の口に入る。どっちも、まっすぐ来てる」


「それ、そのまま流す」


 ポルカの鼻が、丸い口に触れる。爪が閉じる。一呼吸遅れて、マズルカの鼻が、新しい環に触れる。爪が閉じる。岩の両端で、同じ音がしたはずだった。宇宙に音はない。音のない所で、二つの口の表示灯が、ほとんど同時に、赤から緑へ変わった。


「密閉、確認」若い保守員の声。


「丸い口、確認」ヴィクの声。


 ケイは、座席の中で、両手を操縦桿から外した。コロの岩肌の両端に、船が一隻ずつ取りついている。その間を、窓の列がつないでいる。白い船と青い船と、真ん中に灰色の岩と、灯り。ケイは画面の隅の記録ボタンを押した。押してから、押したことに気づいた。


「扉、開けます」


     * * *


 中へ戻ると、廊下が詰まっていた。北の口から来た客が、北宿舎の東の廊下を南へ流れてくる。南の口から来た客が、旅客の廊下を北へ流れてくる。二つの流れが、食堂の前で合流していた。床のテープの黄色の上を、靴が交差していく。重い作業靴。泥の乾いた長靴。子供の布靴。杖の先。黄色の上に黒い線、その上を、知らない人の足が、踏んだり避けたりしながら通っていく。


 作業靴の男たちは、キサの鉱夫だった。肩が厚く、手の甲に古い傷がある。長靴の一団は、ホタの農家で、背負い籠を持っていた。どちらも、ナバへ乗り継ぐ前の時間を、食堂で潰すつもりで来ている。


 ヴィクが、壁際で腕を組んで立っていた。廊下の天井の換気口を見上げ、それから、床の靴を見下ろした。


「循環の負荷、朝だけで北宿舎の二日分」ヴィクは言った。「悪い数字じゃない。人が来て、息をしてる数字だ」


「足りるか」


「今日は足りる。毎日これなら、枝をもう一本」ヴィクは組んだ腕をほどかずに、顎で床を示した。「それより、あれ。テープ。ユイが見たら、泣くよ。知らない靴で、黒い線がすり減る」


「泣くか」


「泣いて、喜ぶ」


 食堂の椅子が足りなかった。十八脚しかない。オトが厨房から顔を出し、鍋の蓋を持ったまま、客の数を目で数えた。


「座れない人は、立って食べて。立って食べる方が、うまいものもある」オトは言った。「汁物は駄目。汁物は座って。立って汁物を飲む人は、だいたい零す。零したら拭く人が要る。拭く人の分のパンはない」


 鉱夫の一人が、立ったまま笑った。


 窓際の卓で、ホタの農家の女が、背負い籠を下ろした。中から、葉の束を出す。濃い緑で、縁が細かく縮れている。隣に立っていた鉱夫が、それを覗き込んだ。女が一枚ちぎって渡すと、鉱夫は、指でつまんで匂いを嗅いだ。


「……何だ、これ」


「食べるのよ」


「キサじゃ、葉っぱは、缶に入ってる」


 鉱夫は葉を口に入れた。噛んだ。顔が、ゆっくり変わった。


「苦い」


「苦いのが、うまいの」女は言った。「缶のは、苦くないでしょう」


「缶のは、缶の味がする」鉱夫は二枚目に手を伸ばした。「これ、キサで買えるか」


「買えない。出す船がなかったから」女は籠の縁を叩いた。「今日から、あるけど」


 鉱夫は、上着の内から、布の小袋を出した。口を開けると、灰色がかった粗い粒が覗いた。岩から掘った塩だった。女が指先で一粒つまみ、舌に載せた。眉が上がった。女が籠を、もう一段開けた。


     * * *


 医務室の前にも、列ができていた。


 今日は、月に一度の巡回診療の日だった。エマの表は、この日に合わせて、マズルカの時刻を組んであった。医者は朝のポルカで着いて、客より先に医務室を開けていた。列の先頭は、額に包帯を巻いた男だった。三時間待たされた日と同じ包帯を、巻き直してきている。男は列の中で、壁にもたれていた。ケイが通りかかると、男は、壁から背を離さずに、顎を上げた。


「今日は、開いたな」


「開いた」


 男は何か続けようとして、呼ばれた。医務室の扉の中へ入っていった。


 列の後ろに、キサの子供が二人並んでいた。一人が、もう一人の袖を引いて、廊下の丸窓を指さした。丸窓の外に、青いマズルカの船腹が見えている。


     * * *


 ガボットは、昼前に着いた。


 新しい口が、マズルカの出ていったあとの環に、ガボットを受けた。影の時間ではなかった。密閉は、一度で通った。扉が開くと、最初に出てきたのは、ホタの港の倉庫で箱を積み上げていた男だった。


 男は、保冷箱を二つ、両腕で抱えていた。ケイが貸した箱だった。蓋に、コロの資材番号が手書きで入っている。男は、廊下の床のテープの前で止まり、黄色を跨いで、ケイの前に箱を置いた。


「中、見てください」


 ケイは蓋を開けた。葉が、濃い緑のまま、縁を立てていた。冷気が、顔へ上ってきた。


「月二回の大きい船は、やめます」男は言った。「こっちに乗せる。箱は、あと二十、借りられますか」


「借りられる」


「契約書は」


「ポルカの船長に」ケイは言った。「船賃は、船の物だ」


 男は頷き、箱を抱え直して、丸い口の方へ歩いていった。ポルカは、まだ丸い口にいた。昼の便で、ナバへ向かう。エマの表の、コロの欄の、狭い空白の中に、その時刻が入っている。


     * * *


 午後、二隻目のガボットの便も、夕方のマズルカの折り返しも、表の時刻どおりに出ていった。


 ケイは、夕方の最後の便を見送ってから、丸い口の脇の廊下で、エマに会った。エマはポルカの出港準備を乗員に任せて、廊下の壁の時計を見ていた。時計の下に、ユイが貼った今日の時刻表の写しがある。朝から晩までの便の時刻に、ユイの赤い丸が、全部に付いていた。


「全部、定刻」エマは言った。「マズルカは、影の時間に着いた。表を動かさずに」


「表を動かさなかったから、環を温めた」


「ヨキから聞いた。保温帯の緑の粒が、十二個、見えたって」


 エマは時計から目を離して、廊下の床を見た。黄色いテープの上に、今日一日の靴の跡が、うっすらと重なっていた。作業靴の太い溝の跡と、長靴の細かい格子の跡。どちらも、黒い線を半分だけ踏んでいた。エマは、その跡の縁を、靴の先で避けて立っていた。


「今日は、待たせなかった」


「今日は」ケイは言った。


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