第70話 三時間
マズルカは、定刻の四分前に、影の中から現れた。
小さな船だった。ポルカの半分ほどの長さで、船腹に青い帯が一本、客席の窓が片側に八つ。窓の全部に灯りが点いている。キサからの初便で、満席だと聞いていた。ケイはハチで新しい口の外に浮かび、環の縁に灯りを当てて、船を迎えた。
コロは、ちょうど影の側へ回り込んだところだった。星の光が、北の稜線の向こうへ消えていく。溝の口の岩肌が、黒く沈んだ。
「コロ、こちらマズルカ。接近します」船長のヨキの声は、短かった。
「新口、準備よし」若い保守員の声が、内側から入った。
マズルカの鼻が、環に寄ってくる。ハチの灯りが、船の接続輪と、コロの環を、同時に照らした。二つの輪が重なる。接触。爪が閉じる。ケイの座席まで、軽い音が届いた。
「接続。密閉、確認します」
ケイは内側の表示を、ハチの画面に回してもらった。圧力計の針が、上がっていく。白い線へ向かう。
止まった。一目盛り手前で。
それから、針が下がり始めた。ゆっくり。本当にゆっくり。止まって見えるほどの速さで、白い線から離れていく。
「漏れてる」若い保守員の声が、裏返った。「扉を開けられません。密閉表示、赤です」
「マズルカ、そのまま」ケイは言った。「扉は開けない。接続も切らない」
ハチを環の外周へ寄せる。灯りを当てる。爪は十二本、全部閉じている。締結具は緩んでいない。環と船の接続輪の間に、目に見える隙間はなかった。見えない所から、空気が逃げている。ケイは右の指で、環の外周に触れた。硬い。冷たい。指の付け根の温度計が、見たことのない低さを示していた。
「ヴィク」
「聞いてる。循環側は正常。漏れは、環と船の合わせ目。量は小さい。小さいが、扉を開ける基準に届かない」
マズルカの客席の窓に、顔が並んでいた。八つの窓に、同じ数だけ。子供を膝に乗せた女がいる。額に包帯を巻いた男がいる。窓に手を当てている老人がいる。誰も、まだ騒いでいなかった。船の外を、黄色い小さな艇が行ったり来たりするのを、目で追っている。
ケイは環の外周を一周した。二周した。どこにも、手を入れる場所がなかった。締め直せば、爪を開けることになる。爪を開ければ、接続が外れる。外れれば、最初からやり直しで、次の接続も、同じ場所から漏れる。
「押さえたら、どうだ」ケイは言った。「ハチで、合わせ目を外から押す」
「押す力で塞がる隙間なら、爪が塞いでる」ヴィクの声は、画面の数字を読む声だった。「押したら、反対側が開く。やめな」
「コロ、こちらマズルカ」ヨキの声が割り込んだ。「客に、何と言えばいい」
ケイは、窓の顔を見た。一番端の窓で、子供が掌を硝子に押しつけていた。掌の形に、窓が曇っている。
「待ってくれ、と」ケイは言った。「理由は、分かったら言う」
「分からないうちは、待てと言うだけか」
「そうだ」
ヨキは、それ以上聞かなかった。回線が一度切れて、マズルカの客席の灯りが、一段だけ落とされた。長く待つ客のための明るさだった。
四十分が過ぎた。
丸い口の側で、ポルカが時刻を迎えた。ナバ行きの定刻だった。ケイの画面の隅で、エマの船の出港表示が点滅した。
「エマ」
「聞こえてる」エマの声は、平らだった。「マズルカの乗り継ぎ客は、ポルカに乗れない。次の便に回す。ガボットの荷も、同じ」
「待てないか」
「待たない。ポルカには、ナバで降りる客と、ナバから乗り継ぐ客が乗ってる」
ポルカの出港表示が、点滅から点灯に変わった。丸い口の側で、白い船体が、定刻どおりに離れていった。
ガボットは、コロの外で、新しい口が空くのを待っていた。ホタの葉と根菜を積んで、ポルカへ積み替える予定だった荷だった。ポルカはもういない。ガボットの船長が、ヨキに何か言い、ヨキが短く答えた。ケイには聞こえなかった。
一時間半。二時間。
マズルカの窓の顔は、少しずつ入れ替わった。立って伸びをする者、座り直す者、窓から離れていく者。額に包帯の男だけが、同じ窓に額を寄せたままだった。
二時間五十分目に、コロが影の側を抜けた。北の稜線の縁から、星の光が戻ってくる。環の外周に、薄く白い霜が付いていたのが、ハチの灯りの中で、端から消えていった。
針が、上がった。白い線を越えて、止まった。
「密閉、確認」若い保守員の声が、掠れていた。「……扉、開けます」
三時間と六分。扉が開いて、キサの客が、北宿舎の東の廊下へ降りてきた。包帯の男は、最後に降りた。廊下の床のテープを見て、足を止め、それから、黄色を踏まないように壁際を歩いていった。
ガボットの荷は、次のポルカまで四日待つことになった。ホタの荷主の一社が、その日のうちに、契約を切ると通知してきた。葉は四日を越えて、もたない。
* * *
夜、エマから通信が来た。映像はなかった。
「契約の条項、読んだ?」
「読んだ」
「接岸口の不具合で乗り継ぎができなかった場合、港は一便ごとの違約金を払う。二便分。満額」エマは言った。「値引きの欄はない。私が書いた欄だから」
「分かってる」
「分かってるなら、いい」エマは一拍置いた。回線の奥で、ポルカの機関の低い音がしていた。
「請求書は明日。今日は、客に謝って」
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