第69話 環を嵌める
工事の二十四日目の朝、溝の口の東の壁に、人の背丈より大きな穴が開いていた。
岩を切ったのはヴィクの手配した掘削屋で、仕上げはケイがハチでやった。削り跡の縁は、赤い磁石の円の内側にきっちり収まっている。穴の奥には、北宿舎の東の廊下から延ばした短い筒がつながり、筒の先で、仮の扉が閉じていた。残りは、環を嵌めるだけだった。
「押すのは、うち。回すのは、あなた」サワが通信の向こうで言った。「回すときは先に言って。うちの船は、黙って回されると機嫌が悪い」
「言う」
ボウが、環を腹に吊ったまま、穴の正面へ入ってきた。平たい船体の灯りが、岩肌を斜めに照らす。環の十二の爪が、灯りの中で順番に光った。ハチは環の外周に回り込み、右の指で、爪の一つを掴んだ。
「三十センチ」
「三十」ボウが、噴射を細く吹いた。環が、岩へ寄っていく。
「右へ、爪一つ分、回す」
ハチの右腕に力を入れる。環の重さが、指の付け根にぐっと乗った。左の指を、反対側の爪に掛ける。左は半拍遅れる。先に命令を出しておいた左が、右の回しにちょうど追いついて、環の傾きを殺した。赤い目印の一つ目と、爪の一つ目が、灯りの輪の中で重なった。
「そのまま。十」
「十」
「五」
爪の先が、岩の縁の座に触れた。ハチの座席まで、鈍い音が伝わってきた。ケイは右の指を離さず、爪の締結具を、作業腕の先の回し具で一本ずつ締めていった。十二本。途中で一本だけ、ねじ山が硬かった。回し具の音が高くなる。ケイは手を止め、逆へ半回転戻してから、もう一度締めた。今度は、音が落ち着いた。
最後の一本を締め終えて、ハチを一度、環の正面まで引いた。
環の内側から、外が見えた。岩の中に開いた丸い口の、その向こうに、星が並んでいる。ケイは座席の中で、頭の位置を変えた。星の並びが、口の縁に沿って動く。この口から入ってくる客は、最初に、この星を見る。
* * *
仮の扉の内側で、テツが検査の紙を持って待っていた。
紙は、トバの環に付いてきた据付の手順書を、テツが清書したものだった。一枚目に、据付の順。二枚目に、密閉の試験。試験の欄は二つあり、一つ目の横に『据付後』、二つ目の横に『十二時間後』とある。
「一回目、始めます」テツが言った。
加圧のポンプが回り、筒の中の圧が上がっていく。圧力計の針が、白い線へ向かって動いた。止まる。待つ。針は下がらなかった。
「保持、よし。一回目、合格です」テツは紙に丸を付けた。「二回目は、十二時間後に」
「二回目は、やらない」
テツの手が、紙の上で止まった。
「マズルカの初便が、明後日の朝だ」ケイは言った。「十二時間待って、試験に半日。そのあとで、扉の仮枠を外して、本の扉を付ける。付けたら、もう一回圧を掛けることになる。そっちで見る」
「試験の紙は、二回です」テツの声は、いつもより低かった。耳の先が赤い。「台車一台分の紙を、全部読めって言ったのは、ヴィクさんで、ケイさんは、それに頷いてました。二回目には、理由が書いてあるはずです。書いてないけど、あるはずです」
「理由が書いてない」
「書いてないから、飛ばしていいことには」
「分かってる」ケイは圧力計を見た。針は白い線にかかったまま、動いていない。「扉を付けたら、全部の圧を掛けて見る。それが二回目だ」
テツは紙を見て、それからケイを見た。何か言いたそうな口の形のまま、ペンを持ち替えた。二回目の欄に、小さく『扉付き・同日』と書き込む。字が、いつもより細かった。
* * *
扉が付いたのは、夕方だった。
本の扉は、トバの環と同じ閉鎖の払い出し品で、蝶番の油が古かった。若い保守員が、油を差してから三回開け閉めし、蓋の裏に日付と型番を書いた。字は、ケイの字に似ていた。本人が真似て練習しているのを、ケイは知っていた。
「圧、掛けます」テツが言った。
ポンプが回る。針が上がる。白い線へ向かう。
針は、白い線の一目盛り手前で、止まった。
テツが息を止めるのが分かった。若い保守員が、ケイの顔を見た。ケイは針を見ていた。針は、止まったまま動かない。下がらない。上がりもしない。一目盛り。環の外周に十二ある爪の、一つ分より小さい差だった。
「保持は、してる」ケイは言った。「漏れてない。扉のパッキンが、まだ馴染んでない」
「白い線の、手前です」
「手前で止まって、下がってない」ケイは手順書の許容の欄を指で叩いた。「許容の中だ」
テツは紙を見た。許容の欄は、確かにそこにあった。一目盛り分の余白が、数字で書いてある。テツは、ゆっくり丸を付けた。丸の線が、途中で一度、止まった。
ケイは針をもう一度見た。窓のない筒の中で、針は、白い線の手前の一目盛りに、じっとしていた。
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