第68話 値段は曲げない
前の晩、ユイは食堂の卓に紙を三枚並べて、端から順に丸を付けていた。
「乗り継ぎで降りた人が、ここで一晩泊まる。朝ごはん付き。オトさんの汁物付き。夜は番組の公開収録。窓から星。これで一泊」ユイは丸の上に、さらに丸を重ねた。「泊まった人が、キサに帰って話す。話を聞いた人が、また来る。来た人の数を、シノさんに出す」
「泊まる時間が、表にない」ケイは紙の端を指で押さえた。紙が、卓の傾きで滑っていた。
「だから、エマさんに頼むの。乗り継ぎの時間を、一晩ぶん延ばしてって」ユイはペンの尻で、自分の額を叩いた。「ケイから言って。私が言うと、たぶん、放送の宣伝に聞こえる」
「宣伝だろ」
「宣伝だよ。でも、数字になる宣伝」
ケイは紙を三枚重ねて、掌で押さえた。卓の脚の下に挟んだ座金が、端から覗いていた。卓は、それでもまだ、わずかに傾いていた。
* * *
ポルカの客席の壁には、透明な板の週間航路表が貼ってあった。
エマは、その横に、もう一枚、新しい板を立てかけていた。こちらはまだ艶がなく、鉛筆の線が、どれも一度しか引かれていない。上の段がマズルカ、中の段がガボット、下の段がポルカ。三つの船の時刻が、コロの欄で一本の縦線に重なっている。
ケイは座席の端に腰を下ろさず、板の前に立っていた。
コロの欄だけ、空白の幅が狭かった。マズルカが着いてから、ポルカが出るまで、指一本の幅もない。ナバの欄の空白は、その倍あった。キサの欄は、さらに広い。
「ここ」ケイは、コロの欄の狭い空白に、指の先を当てた。「乗り継ぎの時間、延ばせないか」
「延ばす理由を言って」エマは板から目を離さなかった。
「泊まる客が増える。食堂で飯を食う。部屋が埋まる。数字が出る」ケイは言いながら、自分の声が早いのに気づいた。「二百七十日目までに、シノに紙で見せる。客がコロに降りて、金を使ったって」
「そう」エマは鉛筆を耳から外した。外して、板には当てなかった。「それは、あなたの紙の都合」
「乗り継ぐ間、客は待つだけだろ。待つなら、座る場所と飯がある方がいい」
「乗り継ぐ客は、早く着きたいから乗り継ぐの」エマの鉛筆の先が、キサの欄を叩いた。「キサから出る人の半分は、怪我人の付き添いか、自分が医者に行く人。ホタの荷は、葉が萎れる前に市へ出したい。コロで一晩泊まりたい客は、泊まる切符を買う。乗り継ぎの切符を買った客を、コロに泊まらせる表は書かない」
ケイは板を見た。狭い空白は、狭いままだった。
「料金は」
「通常どおり。乗り継ぎの割引もなし」エマは言った。「割引すると、マズルカとガボットの取り分が減る。あの二隻は、あなたの港のために飛ぶんじゃない。自分の客の燃料のために飛ぶ。コロは、数字が出るまで、寄港地の一つ」
「一つ、か」
「一つ。ナバと同じ一つ」
ケイは板の縁に、指を掛けた。透明な樹脂が、指の腹の脂で曇る。拭こうとして、やめた。エマの板だった。
「三十日で口を開ける」ケイは言った。「開けた口に、船が来て、客が降りて、すぐ出ていく。それで、紙になるのか」
「なるかどうかは、シノが決める」エマはそこで、板からケイへ顔を向けた。「私が決めるのは、時刻。時刻は、客の物」
乗員が一人、客席の入口に顔を出した。荷の受領書を差し出す。エマは受け取り、数を読み、署名して返した。その手つきに、迷いがなかった。乗員が去ってから、エマは、狭い空白の真上に、鉛筆で小さな数字を書き込んだ。分の単位だった。
「最短で、この時間。これより延ばさない。これより縮めるなら、あなたの口が速くないと」
「縮める気か」
「客が望めば」
ケイは板の縁から指を離した。指の腹の跡が、樹脂の上に曇って残った。紙の数字なら、たぶん自分の方が持っている。住民の数、部屋の数、避難の席の数。どれも、この板の上には一つも置けない。
「期日がある」ケイは、それだけ言った。「二百七十日目」
「知ってる。ユイの番組で、三回聞いた」エマは上着の胸ポケットから、切符を一枚出した。キサの束から抜いてきた物らしかった。裏に、ナバの医療区画の受付印。日付の横に『付き添い』。「この人にも、期日があった。受付が閉まる時刻。乗り継ぎで一晩止められてたら、間に合ってない」
ケイは切符を受け取らなかった。見るだけで、分かった。
「あなたの期日は、あなたが守って」エマは切符をポケットに戻した。「客の期日は、私が守る」
ポルカの船内に、出港前の短い合図が鳴った。三回。乗員の足音が、通路を前へ走っていく。エマは板を壁に立て直し、鉛筆を耳に挟んだ。
「エマ」
「なに」
「……延ばしてくれとは、もう言わない」
「言ってもいい。書かないだけ」エマは客席の出口まで歩いて、振り向いた。制服の襟に、鉛筆の芯の粉が一点、付いている。
「あなたの港でも、客を待たせる表は書かない」
そう言って、エマは操舵室へ戻っていった。ケイは、板の前に一人で残った。コロの欄の小さな数字は、鉛筆の線が一度きりで、まだ艶がなかった。
読んでいただきありがとうございます!
「続きが気になる」「面白い」と思っていただけたら、ブックマークや下の★★★★★で応援してもらえると、とても励みになります。




