第66話 二本の線
エマは食堂の卓に、紙の束を二つ置いた。
右の束は切符だった。色の褪せた片道券が輪ゴムで留めてあり、厚みは親指の第一関節ほどある。左は荷札で、こちらは倍の厚さがあった。紐を通す穴の周りが、どれも毛羽立っている。何度も結び直された札だった。
「キサ」エマは右の束を指で叩いた。「採掘の町。医者が来ない。怪我人が出たら、よその貨物船の空き座席を待って、三つ先の港まで運ぶ。これは去年一年で、キサからナバへ出た人の券」
「医者を待つのか」
「貨物の積み込みが終わるのを待つの。医者はその先」エマは左の束に手を移した。「こっちはホタ。栽培区画の港。葉と根菜を作ってる。作れるのに、出す足がない。大きい船が月に二回拾いに来て、来なければ畑で腐る。これは出られた荷の札。出られなかった荷の札は、ここにない」
ケイは荷札の束を持ち上げた。紙の束のくせに、掌に重さが残る。親指で厚みを挟むと、関節が一つ半、沈んだ。
切符の束の方も、輪ゴムの下から一枚、抜いてみた。裏に、ナバの医療区画の受付印が押してある。日付の横に、鉛筆で小さく『付き添い』。次の一枚にも、同じ印。三枚目には印がなく、子供の字で名前が書いてあった。ケイは三枚を束に戻し、輪ゴムの位置を元へ直した。
ユイが厨房の側から身を乗り出していた。布巾を肩に掛けたまま、切符の束の輪ゴムを引っぱって、ぱちんと鳴らす。
「キサって、あの、番組の電波がぎりぎり届くとこ? 番組に一回、投書来たよ。『うちの町には何もない』って。私、読み上げながら、分かるーって言った」
「その町」エマは頷いた。「何もない町は、船に乗るしかない」
「船に乗って、どこへ行く」ケイは聞いた。
「今は、ナバ。その先は、ナバで決める」エマは券の束を指先で押さえた。「途中で降りられる所があれば、そこで決める人もいる」
ヴィクが盆を持って通りかかり、卓の端に湯呑みを置いた。座らずに、束を上から見下ろしている。
「で、ポルカで拾うのかい。あんたの船は、客席が三十六しかないよ」
「拾わない」エマは鉛筆を取り、卓に広げた航路図の写しに、壁の図へ足したのと同じ二本の線を引き直した。「同業の小さい船が二隻いる。マズルカとガボット。どっちも今は、自分の港とナバを直に往復して、燃料の半分を、客が乗らない区間で燃やしてる。コロで折り返せば、片道が半分で済む。そこから先の区間は、ポルカがまとめて運ぶ」
「乗り継ぎか」ケイは線の交わる一点を見た。コロの点は、鉛筆の先で何度も押されて、紙が凹んでいた。
「そう。だから、条件を先に言う」エマは鉛筆を置いた。「丸い口は一つしかない。ポルカが入っている間、マズルカは外で待つことになる。乗り継ぎの客を外で待たせる港に、誰も乗り換えない。口が、もう一本要る」
ヴィクが盆を脇に抱え直した。「エアロックを一つ増やすなら、循環の枝が一本、与圧の監視が一系統。盤は北側に余裕がない。どこに開けるかで、配線の長さが倍になる」
「開ける場所は、俺が見る」
「電気と空気は、私が見る」ヴィクは言った。「あんたが見ると、岩の都合だけで決まる」
「岩の都合で、何が悪い」
「悪くないよ。岩は文句を言わない」ヴィクは盆の縁を指で叩いた。「住む人は言う。夜中に与圧の警報が鳴る部屋の人は、特に」
ケイは航路図の上で、指を動かした。キサからコロへ、ホタからコロへ。二本の線が、どちらもコロの点で止まる。その先に、ナバへ向かう一本の太い線がある。今まで、コロから出ている線はそれだけだった。
エマが壁の図にこの二本を足した夜、ケイは返事をしなかった。手ぶらで図の前に立って、鉛筆の線を見ていただけだった。エマは返事を待たずに船へ戻り、次に来たときには、二つの港の切符と荷札を抱えていた。
食堂の壁には、トバのアーチの図面が貼ってある。紙が壁に収まらず、端が廊下へはみ出して、床のテープの黄色と並んで走っていた。二百七十日目までに、あの枠を使う客がいると、紙で示す。そう決まってから、もう二十日あまりが過ぎていた。
「マズルカの船長は、乗る?」ユイが聞いた。
「条件次第。口が二本あって、時刻どおりに出られるなら乗る。ガボットも同じ」エマは切符の束を輪ゴムごと持ち上げ、ケイの手元に滑らせた。「ホタの荷主は、もう一つ条件を言ってる。生鮮は、積み替えで待たせたら終わり。待たせないなら、月二回の大きい船をやめて、こっちに移る」
ケイは束を受け取って、輪ゴムに親指を掛けた。輪ゴムが古く、指で押すと、戻らずにひびが走った。新しいゴムに替えたくなる。手が勝手に、上着のポケットを探っていた。
「ケイ」エマの声で、ポケットの手が止まった。
「聞いてる」
「顔が、輪ゴムを替えたがってる」
ユイが吹き出した。ヴィクは笑わずに、盆を抱えて厨房の方へ引き上げていった。
「口を一本開けて、環を付けて、密閉の検査を通す」ケイは声に出して順番を並べた。並べてみると、工程は短かった。短く見えるものほど、どこかで手が止まる。「何日で要る」
エマは航路図を畳んだ。畳む手が速かった。荷の数を確かめる手と、同じ速さだった。
「接岸口は、あなたの仕事。三十日で」
ケイの親指の下で、ひびの入った輪ゴムが切れた。束の端から切符が滑り出て、エマの畳んだ図の端で止まった。
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