第65話 客のいる港
シノの紙は、今度も短かった。
『今回の使用について、記録を受領しました。事故なし。設備の損傷なし。使用料の精算済み』。そこまでが最初の紙だった。次の紙に、シノの字で、手書きの一行が添えてあった。刷った字の中に一行だけ、ペンの字があった。
『一回で、港は買えません。続く客を、期日までに紙で』
その下に、刷った字が戻っていた。『分解による売却の申込みは、引き続き有効です』。
「分かってたよ」ヴィクが、修理ベイの壁の赤丸の図面を見ながら言った。「一回は、一回だ。ワルツが次に来るのは、何か月か先だろう。その間、あの枠には誰も来ない」
「カザは、次もここで、と言った」
「言った。船主に。どこに枠があるかは知らん、とも言った」ヴィクは湯呑みを持ち上げた。「あんたの岩に、船は、週に何隻来るのか。ラズの質問、まだ答えてないよ」
ケイは壁の暦を見た。赤い丸まで、升目が五十八あった。
* * *
食堂の床のテープが、また伸びていた。
買った日から、三十二区画。黄色は、扉の敷居を越えた先の客の廊下を、さらに進んでいた。越えた先の区画には、新しく来た人たちの黒い線が、それぞれの手の癖で引かれている。まっすぐな線、うねった線、最後だけ太い線。ポルカが七日ごとに運んでくる顔が、床の上で、十センチずつ場所を取っていく。
その廊下の壁に、アーチの図面が、まだ貼ってあった。紙の固定架の爪の所に、サエの子の小さな手形が、鉛筆でなぞって残っていた。
エマは、食堂の窓際の卓にいた。今日は、ポルカの寄港の日だった。オトの煮込みを半分食べたところで、匙を置いて、ケイの顔を見た。
「聞いた。ワルツ」
「軸を抜いた」
「カザが、港じゅうに喋ってる。腹の長い船に生まれてよかった、って。あの人が、そんなこと言うのね」エマは卓の上で指を組んだ。「で、次は?」
ケイは、シノの紙を卓に置いた。エマはそれを読んだ。手書きの一行の所で、指を止めた。
「続く客」エマは声に出した。「そうね。一回の客は、客じゃない。通りすがり」
「手伝ってくれるか」
エマは、すぐには答えなかった。窓の外で、ポルカの乗員が台車を押していた。今日は、荷が載っていた。
「条件を先に言う」エマは言った。「手伝う。でも、ポルカの値段は変えない。コロに寄る日も、時刻も、私の客の都合で決める。あなたの枠の都合では決めない。いい?」
「いい」
「それと、もう一つ」エマは匙を取り、器の縁を一度叩いた。「あなた、枠に来る客を探そうとしてるでしょう。腹の長い船を、一隻ずつ」
「探してる」
「探しても、来ない。大きい船は、大きい港の近くを通る。コロの近くを、大きい船は通らない。通らない所に、大きい枠を置いても、ワルツが半年に一回来るだけ」エマは匙を置いた。「港より先に、航路を売りなさい」
「航路」
「船が、そこを通る理由。通る理由があれば、寄る。寄れば、直す。直す所があれば、また通る」エマは、ケイの顔から目を離さなかった。「あなたの岩は、今、ナバからポルカが来て、ナバへ帰るだけの岩よ。行き止まり。行き止まりの港に、客は続かない」
* * *
ユイが、筒を抱えて食堂に入ってきた。
「航路図、刷ってきた。エマさんに頼まれて。ちょっと、そこの皿どけて」
筒から出てきたのは、この辺りの航路の図だった。港の点と、港を結ぶ線。ユイはそれを、アーチの図面の横の壁に貼った。画鋲を四つ。図面の枠の片脚と、航路図の端が、ぴたりと並んだ。
食堂にいた何人かが、皿を持ったまま寄ってきた。オトも厨房から顔を出した。夜勤の男が、図の前で目を細めた。
航路図の上で、コロは小さな点だった。点から伸びる線は、一本だけだった。ナバへ。太くもなく、細くもない、ポルカの線。その一本の線の先で、ナバの点からは、何本もの線が四方へ伸びている。コロの点からは、ほかに何も出ていなかった。
「一本」ユイが言った。「知ってたけど、こうやって見ると、一本だね」
誰かが、小さく笑った。笑い声は、すぐに止んだ。
「一本でも、ちゃんと来てるよ」オトが、厨房の入口から言った。「魚も、粉も、その線で来る。線が一本の家は、その線を大事にする。うちの鍋と同じ」
「オトさん、それは鍋がひとつしかない人の話」ユイが言った。
「鍋は二つあるよ。片方は、この前まで、よその人が持ってた」
ケイは図の前に立ったまま、コロの点の周りを見ていた。点の近くを、細い線が二本、かすめている。どちらも、コロに触れずに、斜めに過ぎていく。線の端に、港の名前が小さく刷ってあった。右上に、キサ。左下に、ホタ。
エマが立ち上がった。卓の上のペンを取り、図の前に立つ。キャップを外した。赤でも橙でもなかった。ポルカの船体の線と同じ、黄緑だった。
コロの点に、ペン先を置いた。
そこから、右上へ、引いた。コロから離れた所にある、小さな港の点まで。もう一本、今度は左下へ。別の小さな港の点まで。どちらの港の点からも、細い線が、それぞれナバとは違う方へ伸びていた。二つの線は、コロの近くを通っていた。近くを通って、どこにも止まらずに、通り過ぎていた。
「この二つの港は」エマはペンのキャップを閉めた。「今、どこにも寄らずに、通り過ぎてる」
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