第64話 また、ここで
新しい軸は、ワルツが自分の腹に積んで運んでいた。
半年前に、船主が取り寄せた予備だった。入れる場所がないまま、ずっと荷室の隅に縛ってあったという。乗員がそれを荷室から出し、一本目の腕が受け取った。抜いたときの逆を、腕がなぞる。溝のない、滑らかな軸だった。回す必要もなかった。まっすぐ押せば、まっすぐ入った。
組み戻しが済んだのは、次の日の昼だった。カザが、機関室から回転継手を回した。継手は、制限なしで一回りした。二回り、三回り。船腹の後ろの方の赤い灯が、消えた。消えたあと、そこには何も点かなかった。何も点かないことが、直ったということだった。
「試す」カザが言った。「枠の中で、一回だけ、全部回す」
「回す前に、爪の荷重をもう一回見な」ヴィクが言った。「軸が回ると、腹がよじれる。よじれた分は、爪に来る」
「見てる」トキが操作席で言った。「全部、針の中だ」
継手が回り、軸が回り、船腹の中で、何かが低く唸った。唸りは、途中で濁らなかった。枠の梁を伝って、操作室のガラスが、わずかに震えた。
* * *
爪が、一つずつ開いた。トキが、閉じたときの逆の順に、繋ぎ替えていく。右の七番が最後だった。ケイはハチを、七番の関節の脇に浮かべて、開くのを見ていた。関節は、今度は、途中で止まらなかった。錆を割った手回しの軸が、灯りの中で、ほかの軸と同じ色に鈍く光っていた。
船腹の通信で、カザが船主に報告している声が、共用の回線に漏れていた。消し忘れたのか、わざとなのかは、分からなかった。
「オルカ船舶、整備課。ワルツ、カザ。回転継手の軸、抜去と交換、完了。制限解除。……ああ、半年待たずに済んだ。場所は、トバの大型ドック。……違う。トバの港がやったんじゃない。コロの修理屋が、トバの枠を借りてやった。……そうだ。岩の。……次の整備も、ここでやりたい。ここ、というのは、この枠のことだ。どこに置いてあるかは、知らん」
ケイは、ハチの操縦桿を握ったまま、その声を聞いていた。
次は、うちの岩で。
喉まで来た言葉が、そこで止まった。この枠は、まだ誰の物でもない。トバの物で、期日の紙の上では、橙色の線が引かれた物だった。枠がどこに置かれるかを、ケイはまだ言える立場になかった。言えないことを、言えないまま、操縦桿を握る指に、力が入った。
カザが、共用の回線に切り替えた。「修理屋。払いは、船主から直接行く。額は、言ったとおりだ。値切ると、俺が怒られる」
「値切るな」
「値切らん。次も頼むからな」
アーチの口座の数字が、その日の夕方、二十万を越えた。
* * *
夜、トバの宿泊室で、ケイはトキのスパナを磨いた。口の薄い方に、錆の赤い粉が残っていた。布で拭いても、刃の縁の細かい傷に入り込んで落ちない。油を一滴垂らして、細い針で、傷の一本ずつから粉を掻き出した。掻き出して、また拭く。柄の握りの、手の形に黒く光った所は、触らなかった。そこだけは、トキの手の物だった。
朝、操作室へ行くと、トキはもう操作席に座っていた。
ワルツが出ていく時刻だった。ガラスの向こうで、タルクの船体が枠の口の外に待ち、ワルツの長い腹が、爪の開いた固定架の間を、ゆっくりと後ろへ下がっていく。船腹の肋が、一本ずつ、固定架の爪の下を過ぎていった。
トキの右手は、把手を握っていた。腕は、もう動かしていない。動かす仕事は、昨日で終わっていた。それでも、握っていた。
ケイはスパナを、柄の方から差し出した。トキは、右手を把手から離さなかった。左手で、スパナを受け取った。重さを確かめるように持ち上げ、口の薄い方を灯りにかざした。傷の中まで光っていた。
「磨きすぎだ」
「錆が入ってた」
「入ってた方が、次に研ぐとき、どこを研げばいいか分かる」トキはスパナを膝の上に置いた。「まあいい。次に研ぐ奴が、困るだけだ」
「次は、誰が研ぐ」
トキは答えなかった。閉鎖の日付の刷られた職員証が、首から下がったまま、胸の前で揺れていた。
「あんたは」トキは、ガラスの外を見たまま言った。「この枠を、どこでまた動かす」
ケイは空いた手を、上着のポケットに入れた。そこにも、答えは入っていなかった。
ワルツの船首が、枠の口を抜けた。
船尾の灯りが、枠の下を過ぎていく。赤と白の小さな灯りが、固定架の爪の間を、一つ、また一つと抜けて、枠の外の暗がりへ出た。タルクの灯りと重なり、二つの船の灯りが、星の中へ遠ざかっていく。だんだん、どれが星で、どれが船か、分からなくなった。
広い枠の中に、灯りが二つだけ残った。操作室の、操作席の前の、緑の計器。そして、枠の真ん中に浮かべたままの、ハチの黄色い灯り。
トキは、把手を握ったまま、ガラスの外を見ていた。
ケイは、その横に立って、同じ所を見ていた。何もない真ん中を。昨日まで、そこに腹の長い船があった所を。トキの右手の指が、把手の擦れた跡の上で、一度だけ、握り直された。
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