第62話 腹の長い船
ワルツは、思ったより静かに入ってきた。
タルクの重い船体が前で曳き、ワルツの長い腹が、その後ろから、枠の口をくぐってくる。船首が固定架の最初の爪の下を過ぎ、二つ目を過ぎた。船腹の窓は暗い。乗員は操舵室と機関室に詰めて、腹の中を空けてある。回転継手の赤い制限の灯だけが、船腹の後ろの方で、ぽつんと点いていた。
ケイはハチを、枠の右の固定架の脇に浮かべていた。船は、長かった。コロの丸い接岸口を並べて十個、という数を知っていても、目の前を横切っていく腹は、数より長い。船腹の補強の肋が、窓の外を一本ずつ流れていく。肋、肋、肋。灯りを当てると、肋の上の塗装に、古い爪の擦れ跡が見えた。前にも、どこかの枠に掴まれたことのある腹だった。
「修理屋」カザの声が、ワルツの操舵室から入った。「あんたの黄色いのが、うちの腹の横を、ずっとついてくる。何を見てる」
「肋を数えてる」ケイは灯りを次の肋へ移した。
「数えてどうする」
「爪を、肋の上に置く。肋のない所を掴むと、腹が凹む」
「凹ませたら、船主に首を絞められるのは俺だ」カザは鼻を鳴らした。「数え間違えるなよ。うちの肋は、前から数えるのと後ろから数えるのとで、一本ずれる。造船所が、前の端に一本余計に足した」
「知ってる。映像で見た」
返事は、肋を二本数えるほど遅れた。「……そうかい」
「止める位置」タルクの声が入った。低い声だった。「あと、何本だ」
「肋を、あと四本」ケイは答えた。「三番の爪の真下に、前から七本目の肋が来たら止めてくれ」
「七本目を、俺は見てない」
「俺が見てる。数える」
タルクの船体の噴射が、一段、弱まった。ワルツの腹の流れが、鈍くなる。肋が、窓の外を一本、過ぎた。二本。三本。
「四本」ケイは七本目の肋に灯りを留めた。
腹が止まった。前へ滑る勢いを、タルクが索で受けていた。受けた力が索を伝って、タルクの船体を後ろへ引き、タルクがそれを噴射で押し返す。二隻の間の索が、低く一つ鳴った。
「止めた」タルクが言った。「重いのは、俺が持つ。爪を閉じろ」
* * *
爪は、一つずつ閉じた。リレーの線を、トキが操作席の横の切り替え盤で、順に繋ぎ替える。繋いだ爪に電気が行き、爪の関節が、三年ぶりに唸る。唸った爪が、ワルツの船腹の肋の上へ降りていった。
右の三番。閉じた。爪が肋を掴んだ瞬間、ワルツの船体が、ほんのわずか沈んだ。沈んで、止まった。爪の縁のゴムが潰れ、船腹と爪の間に、隙間がなくなった。
「三番、固定」トキの声だった。「四番へ移る」
四番、五番、六番。爪が閉じるたびに、同じ唸りが枠の中を渡り、同じ沈みが、船腹に伝わった。左の列も、ヴィクが向こうの固定架の脇で見ていた。左の三番から、順に。
右の七番で、唸りが途中で止まった。爪が、半分降りた所で、動かなくなっていた。関節の奥で、何かが擦れる音が、電気の唸りの下で続いている。擦れて、止まる。擦れて、止まる。
「七番、止まった」トキが言った。「電気を戻す。……戻した。錆だな。関節の手回しの軸が、錆で噛んでる」
「入る」
「待て」ヴィクの声が、左の列から飛んできた。「入る前に、荷重を聞きな」
「聞く」ケイはハチの向きを変えながら、通信に言った。「トキ。七番の爪は今、何を持ってる」
「何も持ってない。半分で止まって、宙だ。ブレーキは効いてる。電気は戻した」
「タルク。腹は、今、何で止まってる」
「三番から六番の爪と、俺の索だ」タルクの声は変わらなかった。「七番がなくても、腹は落ちない。俺が持ってる」
「入る」
ハチを、七番の爪の関節の隙間へ入れた。隙間は、ハチの胴より少し広いだけだった。上に、爪の太い付け根。下に、爪を支える架の梁。左右に、関節の歯車の箱。灯りを点けると、関節の奥に、手回しの軸の頭が見えた。四角い頭が、錆で赤く膨れている。
「テツ、上から」
「はい」
一本目の腕の関節の上に留めた四つ目の灯りが、真上から、爪の関節の奥へ落ちてきた。三つの灯りでは影になっていた軸の頭が、白く浮いた。頭の四つの角の、一つだけが丸く削れていた。前にも誰かが、ここで回したのだ。
ケイは右の腕で、トキのスパナを持った。スパナの口を、軸の頭に当てる。入らない。錆の膨れの分だけ、口が狭い。スパナの口の薄い方を、錆の上に斜めに当てた。薄い方なら、入る。何度も研いだ理由が、分かった。
「回すぞ」
右の腕で、スパナを押した。動かない。ハチの噴射を足して、腕ごと押した。動かない。ハチの胴が、関節の箱に押しつけられて、座席の背にその硬さが来た。左の腕を、スパナの柄の先に添えた。左は、半拍遅れて柄を掴んだ。遅れて、掴んだ。
両腕で押した。軸の頭が、鳴った。錆が割れる、乾いた音だった。スパナが、ひと目盛りだけ動いた。もう一度。今度は二目盛り。軸の頭から、赤い粉が噴き出して、灯りの中で煙のように広がった。
「電気、入れてくれ」
関節が唸った。止まっていた唸りが、今度は途中で止まらなかった。巨大な爪が、ハチの窓の外の視界を、上から下へ、ゆっくり塞いでいく。塞いで、止まった。爪の縁のゴムが、ワルツの船腹の七本目の肋を、真上から掴んでいた。
「七番、固定」
「撮りました!」テツの声が、通信の中で裏返った。「今の、上から撮りました。ケイさん、爪の中にいます。爪の中に、ハチがいます。黄色いのが、こんな、指の先くらいで」
「喋ってないで、灯りを動かすな」ヴィクが言った。
「動かしてません。僕の手が震えてるだけです」
ハチは、爪の関節の隙間に挟まったまま、しばらく動かなかった。窓の外は、爪の付け根の鉄の壁だった。黄色い艇が、巨大な爪の関節の中に、指一本分の余白で収まっている。後で、テツが撮った写真を見て、ケイはそう知った。
* * *
全部の爪が閉じると、ケイはハチを後ろへ抜いて、船腹の回転継手へ回った。継手の周りの錆は、映像で見たとおりだった。太い軸が、継手の中心を貫いて、根元で噛んでいる。灯りを、軸の根元へ寄せた。
傷は、映像より深かった。
映像では、細い線だった。灯りの下では、線の両側が抉れて、溝になっていた。溝の底に、削れた金属が、薄い鱗のように何枚も立っている。溝は、軸の根元を、斜めに半周していた。
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