第60話 使える日の紙
シノは、貸すとは言わなかった。「一回の使用を、条件付きで認めます」画面の向こうで、シノは紙を一枚ずつ読み上げた。「保険は使用者側で。枠の全体、ワルツの船体、作業員、第三者。立会いは当方の有資格者。電源は持ち込み。当方の設備に損害が出た場合は、全額を使用者側で」
「使用料は」
「規定の額です。前払いで」
頷いてから、端末の別の画面を開いた。運転口座を見た。見ても変わらなかった。細い帯は、細いままだった。保険の見積もりを、その上に並べた。帯の幅が足りない。使用料を足すと、足りない幅が、帯と同じくらいになった。
アーチの口座の一万二千は、画面の隅にあった。親指がその数字の上まで行って、画面の縁へ戻った。
「期日のための使用ですか」シノが聞いた。
「そうだ」
「では、使用の記録も、見込みの一部として当方は読みます」シノは紙を揃えた。「前払いが確認できた日から、日程を組みます。確認できない日は、組みません」
* * *
「保険だけで、これ?」
ユイが、修理ベイの作業台に肘をついて画面を覗き込んだ。ヴィクは隣で、腕を組んでいる。
「ワルツの船体が入ってる。船が高い」ケイは見積もりの一行目を指で叩いた。
「借りる? どこから? ナバの金貸しは駄目だよ、夜勤のおじさんが前に借りて、利息で泣いてた。毎晩泣いてた。放送で言わないでって言われたから言わないけど」
「借りない」
「じゃあ、どうするの」
ケイは答えずに、壁の方を見た。ハンガーに、何日も袖を通していない上着が掛かっている。
ヴィクが、ケイの視線の先を追った。追って、小さく息を吐いた。「……あれか」
「あれって、何」ユイが二人の顔を見比べた。それから、上着を見た。見て、目を丸くした。「え、あれ? あの紙? いつ使うのって聞いたら、いつかって言ったやつ?」
「いつかだ」ケイは椅子から立った。
「いつかって、今日なの」
ケイは上着の内ポケットに指を入れた。紙の角が、指先に当たった。引き出すと、折り目が一本、真ん中を通っている。広げなくても、中身は覚えていた。空いた部屋を、回収品の一時置き場として借りたい。賃料は住民の三倍。使える日が来たら出してください。値段は、その日の私が決めます。
* * *
ラズは、次の日の昼にコロへ来た。自分の会社の小型艇で、客の口から入ってきた。今日は、一人だった。
食堂の窓際の卓で、ケイは紙を出した。折ったまま、卓の上に置いた。
ラズは、しばらく紙を見ていた。触らずに。それから指先で、折り目を開いた。紙が、卓の上に平らになった。折り目は、三倍の数字の、ちょうど真横を通っていた。
「いつかは出していただけると、思っていました」ラズは顔を上げずに言った。「今日だとは、存じませんでした」
「今日だ」
「何にお使いになるか、伺っても」
「アーチを、一回借りる。船を入れる」
ラズの指が、紙の上で止まった。止まったのは、ほんの一呼吸だった。
「良い使い道です」ラズは言った。「枠が一度でも動けば、動いた記録が残る。整備腕が良好に動く、という記録です。当社の分解の評価も、その分、上がります」
「上げてやる気はない」
「存じています。ですが、上がるものは上がります」ラズは紙から指を離し、窓の外へ目をやった。「では、今日の私の値段を」東宿舎の外壁と、北宿舎の窓の列。どの窓にも、カーテンか、棚か、灯りがあった。「コロには、空いたお部屋がもうありませんね。この紙を書いた日は、二十六人分、空いていました」
「空いてない」
「あるのは、外壁と、倉庫Bの床」ラズは紙の上に、自分のペンを置いた。橙色ではなかった。黒だった。「屋根のない所に、回収品を置く。置いた物は、寒さと、光と、塵を浴びる。当社の物の値が、その分、下がります」
「いくらだ」
ラズはペンの蓋を外し、紙の折り目の上に、新しい数字を書いた。住民の賃料の、一・二倍。三倍の数字の横に、折り目を挟んで並んだ。
三倍が、一・二倍になっていた。細い帯を太くするはずだった額が、帯の隙間を埋めるだけの額になっている。保険と使用料には、届く。届いて、ほとんど残らない。
「前払いでお支払いします。一年分」ラズはペンを置いた。「倉庫Bの床は、穴を避けて使います。巻き胴には、触りません」
「三倍には、戻らないのか」
「戻りません」ラズは、ためらわなかった。「あの日のコロには空き部屋があり、あなたには急ぐ理由がなかった。今日のコロには空き部屋がなく、あなたには急ぐ理由がある。値段が違うのは当然です。その日の私が決めると申し上げたのは、そういう意味です」
厨房の奥で、オトが鍋の蓋を置く音がした。ラズは、そちらを見なかった。
ケイは、黒いペンを取った。紙の下の署名欄に、自分の名前を書いた。書き終えて、ペンを返した。ラズは受け取り、蓋を閉め、紙を二つに折り直した。新しい折り目は、今度は一・二倍の数字の、真横を通った。
ラズは紙を上着の内ポケットへ収めながら、窓の外を見たまま言った。「紙を出す日は、困っている日です」
「知ってて出した」
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