第57話 安く、全部
図面の写しは、机からはみ出した。自室の床に膝をつき、ユイに刷ってもらった縮小版の図を広げる。万力の脚の横から、扉の方へ。紙の端が、閉まらない扉の敷居を越えて、廊下へ垂れた。手には、赤いペンがあった。
調査の記録を横に置き、一つずつ写していく。主構造、使える。赤丸。整備腕の一本目、使える。赤丸。二本目、使える。赤丸。固定架の爪、右列の一から十二、関節に錆、動く。赤丸を十二。左列も。制御室の筐体、使える。配電盤、替え。替えの所には、丸を付けなかった。死んだ三本目と、首を垂れた四本目にも。
丸は、どこまでも付いた。紙が赤くなっていく。
膝で進みながら、廊下へ出た。垂れた紙の端が、床のテープの縁に重なっていた。黄色の上に、白い紙。紙の上の、固定架の爪の最後の一つに、赤丸を付けた。丸の下半分が紙からはみ出して、テープの黄色の上に、赤い弧を描いた。
「あ」ユイが廊下の向こうで声を上げた。「それ、消えないやつ」
「消える」
「消えない。前にテツが試して、半日こすってた。こすった所だけ、黄色が薄くなったの。今も薄いよ、ほら、三十一番目」
指で弧を擦った。黄色の上で、赤が伸びた。ユイが駆け寄ってきて、しゃがみ込み、伸びた赤を見下ろした。怒るかと思ったが、ユイは端末を出して、写真を一枚撮っただけだった。
「番組のネタ、ありがと」
* * *
申込みの文は、夜のうちに書いた。主構造のみ。整備腕と爪は、使える物だけ。付属品は引き取らない。支払いは分割で、初回はアーチの口座から。初回の欄に一万二千と打ちかけて、口座の説明欄の一行を思い出した。『枠を買う日まで、動かさない』。支払いは、買う日の後だ。規則には触れない。そう読めば、そう読めた。欄を空けたまま、次へ進んだ。
「安い」肩越しに声がした。いつから立っていたのか、ヴィクが湯呑みを持っていた。「ラズの案より、ずっと安い」
「付属品を捨てた分だ」
「捨てた物を、トバは誰に売るの」
画面の上で、指が止まった。
「それは、トバの仕事だ」
ヴィクは湯呑みを置かなかった。置かずに、画面の最後の欄を見ていた。『添付』の欄だった。
「調査の記録、全部付けるつもり?」
「誠意だ。どこが使えるか、全部見せる。隠す物はない」
「隠す物がないのと、見せる物を選ばないのは、違う話だよ」ヴィクは湯呑みを傾けた。空だった。「まあ、あんたの申込みだ。蓋裏には、あんたの名前が残る」
ヴィクが出ていったあと、記録を添付して、提出の画面を開いた。上に、注意書きが三行あった。一行目は締め切り。二行目は書式。二行目まで読んで、指を送信の欄へ下ろした。そこで、瞼が勝手に落ちた。
* * *
翌朝、ポルカが七日目の寄港で着いた。エマは食堂の窓際の卓に座り、オトの煮込みを待ちながら、廊下の図面を見ていた。廊下の床の、黄色の上の赤い弧も。
「あれ、あなたの?」
「消えなかった」
「そうでしょうね」エマは卓の上で指を組んだ。「で、アーチ。いくらで申し込むの」
ケイは額を言った。エマは眉を動かさなかった。
「分割で」エマが確かめるように繰り返し、ケイが頷くと、「付属品なし」ともう一度言った。ケイはまた頷いた。頷くたびに、自分の申込みが卓の上で軽くなっていく気がした。
オトが煮込みを置いていった。エマは匙を取らずに、湯気の向こうからケイを見た。
「私はポルカの値段を、一度も下げたことがない」
「値段は曲げない、だろ」
「最初の年に、一度だけ下げかけたことはある。常連の荷主が、半額なら毎便使うって言ったの。毎便よ。船は空で飛ぶより、半額でも荷がある方がいい。そう思って、帳面を開いた」エマは匙の柄で、卓の縁を一度叩いた。「開いたところで、前の船長に帳面を閉じられた。半額の客は、半額の船が来た日に乗り換える、って。その荷主は、次の年、本当に別の船に乗り換えた。私の船が半額だったら、私は一年、半額で飛んで、それから捨てられてた」
「下げる客は、下げた値段でしか乗らない。次の便も、その次も。そういう客に、私は船を売らない。売る物が何でも」エマは匙を取った。「安く買う人に、私なら、港は売らない」
「俺は、港を売る側にいない」
「今はね」エマは一口食べて、目を細めた。「オトさん、今日のは塩が正しい」
オトが厨房の奥から、柄杓を上げて応えた。「昨日のも正しかった。昨日は、あんたがいなかっただけ」
膝の上の端末の中で、提出の欄が、灰色の枠のまま待っていた。昨夜、送信の手前で眠ってしまった画面だった。エマの匙が、器の底を二度鳴らした。窓の外を、ポルカの乗員が台車を押して通った。空の台車だった。
ケイは、送信を押した。
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