第52話 正式な値段
シノは、挨拶より先に規則を読んだ。
画面の向こうの机には、何も載っていなかった。紙も、湯呑みも、ペンもない。五十を越えたくらいの女が、両手を机の縁に揃えて置き、手元の一覧を上から順に読み上げていく。トバ保守港の運営会社、資産課。名乗りは最後だった。
「本体を一体で引き取る場合の参考価格は、百四十万。運搬、据え付け、付属品の扱いは含みません。参考です。値段は、調査のあとに紙で出します」
「調査は、いつできる」
「有資格者の立会いがあれば、いつでも。立会いのない調査の結果は、当方の記録に載せません」シノは一覧の次の行へ指を進めた。「なお、分解での買い付けの申し入れが、既に一件あります」
「誰だ」
「申込者の名は、申込者に申し上げません」
ケイは黙った。昨夜の一行が、頭の中で勝手に読み上げられた。
「丸ごとの方を、先に見てくれるか」
「順番は、申込みの順です。先に見るかどうかは、中身で決めます」シノは一覧を閉じ、初めてケイの顔を見た。「アサノさん。口で言ったことは、当方では何も決まっていません。決まったことは、全部、紙で届きます」
「分解の方は、紙はもう出てるのか」
「出ています。分解は、手続きが短い。切って、量って、運べば終わります」シノは両手を机の縁から離さなかった。「一体で引き取る方は、運んだ先で何に使うかまで、当方は伺うことになります。港の設備を港の外へ出すのは、当方にとっても初めてですので」
「使い道なら、ある」
「伺っておきます。口で」
通信が切れた。机の上に何もない部屋の残像が、暗くなった画面の奥に残った。ケイは自分の机を見た。万力と、継手と、『なぜ』の紙と、ねじの缶と、使いかけのテープが三つ。シノなら、この机の上の物を、一つ残らず数えて記録に載せるだろう。
* * *
二号艇の扉は、朝から開いたままだった。赤札は、扉の脇の手すりに結ばれている。最終検査で落ちた日に検査官が把手へ掛け、ヴィクが手すりへ結び直した札だった。その横で、若い保守員が膝をつき、裂けたパッキンを溝から剥がしていた。黒いゴムが、古い皮のように丸まって剥がれていく。ケイは通路の反対側の壁に背をつけ、両手を上着のポケットへ入れていた。
溝の底に、古い接着剤が残っている。若い保守員はへらを寝かせて、それを削った。角度が深い。あの深さだと、溝の縁まで削る。ケイのポケットの中で、右の指が勝手にへらの形になった。
「ケイ」ヴィクの声が、背中の方から来た。
「何もしてない」ケイは壁に背をつけたまま答えた。
「手が、ポケットの中で削ってる」
若い保守員が、へらを浅く持ち直した。誰にも言われずに、だった。縁の塗装を残して、接着剤だけが薄く剥けていく。溝を拭き、規格品の箱から新しいパッキンを出して、型番を声に出して読んだ。ヴィクが頷く。ゴムを溝へ押し込むとき、彼は親指でなく、掌の付け根を使った。指より面が広い。ケイがいつもやる押し方だった。
扉を閉め、ヴィクが圧力をかけた。計器の針が上がっていく。白い線の手前で一度揺れて、越えた。そのまま、止まった。
若い保守員は、扉の内側の蓋を外し、裏に書き込んだ。型番。日付。理由。字は、ケイの字の癖を真似て、右肩が上がっていた。
ヴィクが、手すりの赤札の紐をほどいた。札を若い保守員の手に載せる。「あんたが外しな」
避難の席が、百五十、戻ってきた。住んでいる人の数より、百六十以上多い。ケイはポケットから手を出し、若い保守員の肩を軽く叩いた。何か言うべきだった。何を言うか考えているうちに、彼は赤札を持って、工具を片付けに行ってしまった。
* * *
図面は、壁に収まらなかった。トバから届いたアーチの全体図を、ユイが刷り出して、食堂の壁に貼り始めた。一枚目は、配膳台の横の空いた壁。二枚目、三枚目。枠の片側の脚だけで、壁が尽きた。
「足りない」ユイは画鋲を口にくわえたまま言った。「壁が足りない。コロの壁が、アーチに負けてる」
「剥がせばいい」
「剥がさない。続ける」
四枚目は、食堂の入口の柱に貼られた。五枚目からは、廊下だった。整備腕が、廊下の壁を扉の方へ伸びていく。腰の高さに、紙の枠。足元に、床のテープ。黄色と黒の線と、白い紙の上の細い線が、同じ向きに並んで走った。
昼の配膳に並んだ列が、紙の横で自然に曲がった。皿を持った人が、図面の注記を読もうとして立ち止まり、後ろの人がその背中にぶつかる。オトが配膳台から身を乗り出した。
「図面の前で止まるなら、先に皿を受け取ってからにして。煮込みは、図面より先に冷める」
子供たちが、紙の整備腕を指でなぞりながら歩いた。サエの子が、固定架の爪の所で立ち止まり、自分の手を開いて、図の爪に重ねた。図の方が小さかった。
「これ、ぜんぶでいくら?」
「まだ、値段がない」ケイは言った。
「ないのに、買うの?」
ケイは答えずに、図の縮尺を見た。紙の一枚が、実物のどれだけか。指で測ると、食堂の入口から扉まで、つまりテープの全長で、アーチの片腕の半分にも届かなかった。
夜、ヴィクが廊下の紙の前で腕を組んでいた。頭灯を点けて、整備腕の関節の注記を、一枚ずつ読んでいる。
「調査の立会い、有資格者だってさ」
「あんたが取ってくれるか」
「取らない」ヴィクは紙から目を離さずに言った。「調査は、私が行く。あんた一人で見たら、全部使える物に見える」
ヴィクの頭灯の輪が、次の一枚へ移った。
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