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星を買うには三百人  作者: 雅龍(がりゅう)
第5章 港ごと、いくらだ

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第51話 箱は、売らない

 鍋は、洗ってあった。


 ラズは食堂の入口に立ち、それを両手で差し出した。持ち帰りの煮込みを入れて貸したまま、ナバへ持っていかれた鍋だった。底の焦げ跡まで落ちていて、縁の欠けだけが元のままだった。把手の重い側を、きちんと手前にしている。


 オトが受け取り、蓋を取って中を覗いた。「磨きすぎ。焦げも味のうちなんだけど」


「次にお借りするときは、焦げたまま返します」


「次も貸すつもりの顔だね」


 ラズは笑って、灰色の上着の襟を直した。ケイは卓の端でパンを齧りながら、その指を見ていた。塗料の跡も、油の染みもない。爪は短く、角だけが削れていた。書類と工具を、同じ日に持つ手だった。


「約束どおり、伺いました」ラズは椅子を引かず、立ったまま言った。「使われていない設備を、見せてください」


     * * *


 外の物は、整備窓から見た。


 東宿舎の裏の外壁に、使われなくなった放熱板が畳んだまま張りついている。板の縁が星の光を拾って、白い櫛のように並んでいた。その下に、予備のタンクが二基。どちらも、ヴィクがずっと前に配管から切り離した物だった。


「放熱板は型が古い。タンクは、内面の検査記録が残っていますね」ラズは端末と窓の外を、交互に見た。「両方、この値で」


 ヴィクが画面を覗き、眉を片方だけ上げた。ケイの方は見ずに頷いた。


「いいのか」


「いい値だよ。うちで使う予定もない。蓋裏に、そう書いてある」


 ケイは窓の外の板を見た。畳まれた板は、広げれば何かの屋根になる。何の屋根かは、浮かばなかった。浮かばない物を、ケイは顎の動き一つで手放した。喉の奥で、小さく鉄が鳴ったような気がした。


     * * *


 倉庫Bの扉を開けると、ラズは一歩目で止まった。


 床の真ん中に、黒い穴がある。ラズはそれを見なかった。見ないまま壁際へ寄り、床から一段上がった梁の上へ、革靴の片足を載せた。もう片方を載せ、梁の上だけを歩き出す。靴底と梁の幅が、ほとんど同じだった。上着の裾も、肩も、揺れなかった。


 テツが点検機を抱えたまま、ケイの袖を引いた。「あの人、ここ来たことあります?」


「ない」


「じゃあ、なんで穴のとこ避けるんですか。僕、最初の日に片足落ちましたよ。まだ覚えてます、あの冷たさ。靴下まで」


「図面を買ったんだろ」ヴィクが言った。「この岩の古い図面は、一枚だけ売りに出てたことがある。買ったのは、私じゃない」


 大扉の奥の部屋で、ラズは巻き胴の前に立った。人の背丈ほどの径の胴に、太い綱が二重に巻かれている。手袋をはめ直し、綱の一巻きを指で押して、離した。綱が戻る速さを、黙って見ていた。


「この胴には、この値を付けます」


 画面の数字を、ヴィクが先に読んで、短く息を吸った。ケイも読んだ。放熱板とタンクを合わせた値の、何倍もある。細い運転口座の底を、一度で埋めて余る桁だった。


「売らない」


「理由を伺っても」


「まだ、回したことがない」


 ラズは頷いた。頷いたまま、視線を床へ落とす。胴の前の埃に、平行な筋が二本走っていた。レールの跡だった。ラズは靴の先で片方の筋をなぞり、なぞりながら、部屋の奥の壁まで歩いた。筋は、壁の下へ潜り込んで消えている。


「これは、北へ出る道ですね」


 ケイは壁を見た。北には、旧採掘の溝がある。岩の中を、何かがあの溝まで運ばれていた。この胴で巻いて。


「どこへ出るか、知ってるのか」


「存じません。ただ、レールは行き止まりに向かって敷きませんので」ラズは靴先の埃を、梁の角で落とした。「売る気になられたら、値は今日のまま、とは申しません。その日の私が決めます」


     * * *


 放熱板とタンクの代金は、夕方に入った。ケイは端末で、口座を一つ新しく作った。名前の欄に『アーチ』と打つ。最初の入金は、今日の売り上げの一万二千。説明欄に、規則を一行だけ書いた。『枠を買う日まで、動かさない』。星の口座に書いたのと、同じ文だった。


 ユイが肩越しに覗いた。「アーチって、あのでっかいやつ? トバの? 写真の端っこが入らなかったやつ?」


「それだ」


「一万二千で?」


「星の最初の日は、二千だった」


 ユイは唇を何度か動かし、何も言わずに拡声器の電池を替えに行った。廊下の途中で振り返って、「番組で言っていい?」とだけ聞いた。ケイは首を横に振った。まだ、言える物が何もない。


     * * *


 夜、自室の机の前に座った。万力の口には、ハチの左腕の継手が、昨夜のまま噛ませてある。その下の紙に『なぜ』。ケイは紙を引き寄せ、下へ行を足した。『継手』『弁』『油の粘り』『信号線』。頭灯で読める大きさで、一行ずつ。


 継手の軸へ、細い棒を差し込んだ。棒を握り、手首だけで回す。右へ。左へ。止めて、また右へ。軸は回した分だけ、すぐに回った。引っかかりも、溜めもない。棒の先に紙の目盛りを貼り、端末の時計の秒と合わせて、もう一度回した。三度続けて、目盛りが秒に揃った。


 継手は、遅れない。


 三回替えて、三回戻った物だった。遅れの元は、この鉄の外にある。ケイはペンを取り、『継手』の上に線を一本引いた。線の下で、残りの三行が、急に遠くなった。


 端末が光った。ラズからの受領の報せだった。品目、放熱板一式、予備タンク二基。代金支払い済み。事務の文の終わりに、改行を一つ挟んで、一行だけ足してあった。


『トバの枠なら、私も見積もっています』


読んでいただきありがとうございます!

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