第50話 俺の星になった
ユイは床に座って、黒いペンの蓋を指で回していた。
廊下の両側には、朝から人が立っていた。食堂の入口から接岸口の扉まで、壁に背をつけた者、子供を肩車した者、皿を持ったままの者。誰もテープを踏まないように、全員が壁際へ寄っている。黄色は食堂の入口から扉を越えて、敷居の先まで、途切れなく延びていた。その下を、黒い細線が、並んで走っている。黒は、扉の手前で止まっていた。あと七区画。扉の向こうの黄色四区画の下には、まだ何も引かれていなかった。
二日前の再検査で、代わりの艇の針は、白い線を越えた。ケイはその瞬間を見ていない。ハチの座席で眠って、十四時間、起きなかった。起きたときには、机の上に合格書が置いてあって、ヴィクの太い字が、その上に一行だけ添えてあった。『寝な』。二行目は、なかった。
午前十時。時計の針が重なった。
「はい、来て」ユイが顔を上げた。「最後の組」
人の列から、家族連れと単身者が、順に出てきた。床に膝をつき、ユイから黒いペンを受け取って、黄色の下へ自分の十センチを引く。
「端まで、ちゃんと引いて。かすれたら、私が泣くから」
線が引かれるたびに、黒の先端が扉へ近づいた。壁際の誰かが、息を吸う音がした。
七人目は、夜勤の仕事を持ってきた単身者だった。男は、扉の前の区画に膝をついた。そこは、いちばん小さな女の子が、舌の先を出して塗り潰した場所だった。縁からはみ出した黄色が、白い床に食い込んでいる。男は、そのはみ出した黄色の縁に沿って、黒を引き切った。
黒い線の先が、扉の前に届いた。
廊下は、しんとしていた。皿を持った誰かの指から、力が抜ける音がした。ケイは壁に背をつけたまま、動けなかった。喉の奥で、何かが形になりかけている。横で、テツが、かすれた声で言った。
「三百です」
「ああ」
「今度は、認定で」
頷いた。頷くのが、やっとだった。
「あと四つ」ユイの声が、震えていた。「敷居の向こう」
次の人が、敷居をまたいだ。客の廊下の床にしゃがんで、黒を引く。次の人も、その次も、同じ場所にしゃがんだ。最後は、いちばん小さい子だった。ペンの先を額へ持っていきかけて、母親に手を押さえられた。敷居の向こうの床に、黒い線が、四区画ぶん延びた。
その先の客の廊下に、エマとラズが立っていた。エマは、黒の引かれた床の手前で、靴を半歩、引いた。踏まないように。ラズは、黄色の外側の細い縁を歩いて来て、線が引かれるのを、最後まで見ていた。どちらも、何も言わなかった。
ユイが端末を持ち上げた。「認定、三百四」
* * *
食堂から、椅子が廊下へ運ばれてきた。サエが持ってきたのは、二番だった。座面が低い。ケイは、それに座った。
端末の画面に、土地保有者の担当と、登録を行う管轄の担当が並んだ。同じ取引番号が開いている。
「認定三百四人。固定価格六十万。生命維持、居住、避難の最終検査は合格。確認欄に、未完了はありません」
初日に受け取ったのは、期限つきの管理権だった。今日から、この岩に期限はない。誰かが部屋を明け渡す欄は、どこにもなかった。
ケイは署名した。指は、震えなかった。
購入用の口座を開く。六十万。何度も開いた数字だった。送金先を確かめ、確定を押した。数字が、零に置き換わった。数えてきた指が、数えるものを失って、宙で止まった。
続いて、受領の確認が届いた。移転。登録完了。
画面の最後に、一行が出た。『小惑星K-441、コロ。所有者、ケイ・アサノ』
指で、その行をなぞった。なぞっても、消えなかった。ケイは立ち上がって、接岸口の扉の脇へ歩いた。看板が、ほんの少し、右へ傾いている。『コロ』と、その下の小さな『K-441』。ずっと前に、自分が打った字だった。板の縁を、指の腹で左へ押した。板が水平になった。
「傾いてたの、何日も前から知ってた」ヴィクが後ろで言った。「直すのは今日だろうと思って、黙ってた」
「ケイ」ユイが、拡声器のマイクを差し出した。「言って」
「何を」
「決まってるでしょ」
マイクを受け取った。喉が乾いていた。
「買った」声が、思ったよりかすれた。「六十万、払った。コロは、俺の星になった」
食堂から、先に音が来た。椅子を引く音。人の声。厨房で、鍋の蓋が、床に落ちた。それから廊下の全員が、一斉に息を吐いた。
「おめでとう!」誰かが叫んだ。
「まだ早い!」ユイが叫び返した。「お祝いは、夕方から!」
笑い声が、廊下の端から端まで、転がっていった。
「おめでとうございます」ラズが、黄色の縁を歩いて、ケイの前へ来た。頭を下げる。「私の負けです。出ていかれた方は、全部で八人。私の見立ては十五でした。外したのは、久しぶりです」
「十五と言ったのは、あんただ」
「見立ては、外れることもあります」ラズの口の端が上がった。「その代わり、条件を出し直させてください。この岩に付いている、使われていない設備と、余った部品。置き場に困っている物が、まだあるでしょう。適正な値で、買い付けます」
ケイは、自分の部品箱のことを考えた。「箱は、売らない」
「箱は要りません。棟の外側の、あなたが持て余している物です」
「……明日、ヴィクと見る」
「明日、伺います」ラズは一礼して、客の廊下へ戻っていった。黒の四区画を、踏まずに。
エマが、敷居の向こうから、こちらを見ていた。手元でなく、ケイの顔を。
「ありがとう」ケイは言った。礼の言い方は、昔から下手だった。
「まず、それなのね」エマは笑った。「買った顔。ちゃんと、見た」
* * *
夕方の祝いの席で、オトが一番大きな鍋の蓋を開けた。肉が、ちゃんと大きかった。
「買えなかったら、この肉、どうするつもりだった」
「私が食べる。全部」オトは柄杓を動かした。「だから、安心して買いな」
二皿目まで食べたところで、通信が鳴って、ボウの顔が、皿の横の端末に映った。「請求書、送った。おめでとうは、三行目。無料だ」
食べ終わると、ユイが端末を渡してきた。「外から、全景、撮ってきて。番組で使う」
ハチで外へ出た。灯りを一つだけ点けて、コロから離れる。岩肌の上に、窓の列が見えてきた。旅客の窓。食堂の窓。南棟の窓。その外側に東宿舎と窓棟が三つ、いちばん奥の北宿舎だけ、窓の半分が暗い。暗い窓のあいだにも、灯りが点いている。ケイが曳いてきた家の窓だった。カーテンの掛かった窓。低い棚を置いた窓。二段ベッドの影を映した窓。
通信に、ユイの声が入った。「どう、見えてる?」
「窓は、数えない」
「珍しい」
ケイは答えず、ハチを一段、岩から離した。全景が、端から端まで一枚に収まる位置まで。廊下の突き当たりの丸い窓に、小さな人影が張りついていた。
ケイはハチの右腕を上げた。左が、半拍遅れて上がる。丸窓の中で、小さな手が、大きく振られた。ケイは両腕を振った。左は最後まで遅れていた。
写真を撮って、ユイに送った。返事の代わりに、食堂の窓が、ひとつ、大きく光って、元へ戻った。
* * *
自室の机に、ナバで買った板を当てた。天板の縁に板を敷き、その上に、万力の脚を置く。印をつけた位置へ、細いドリルで穴を開けていく。廊下から、ヴィクが覗いた。
「穴を開けるなら、壁じゃないだろうね」
「机だ」
「なら、下まで抜かないように」
笑って、穴へボルトを通した。万力を留める。手で揺すった。動かなかった。二十八の誕生日に買った物が、初めて、どこかに固定された。
端末に、写真が一枚、残っている。トバで撮った、巨大なドックだった。アーチ。その下に、黄色い点が写っている。ハチだった。枠の両端は、写真に収まっていない。
「次は、あれを持ってくる」
誰も聞いていない部屋で、小さく言った。写真を閉じて、机の下から、ハチの左腕の継手を出した。何度直しても、戻った物だった。それを、万力の口に噛ませた。
ハンドルを回す。何も挟まなかった日の、鉄と鉄が合わさる硬い音はしなかった。継手の重さが、口の奥から、掌へ伝わってきた。ケイは紙を一枚取り、最初の行に『なぜ』と書いた。ほかの人にも読める字で。
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