第49話 避難艇を曳いてこい
モジュールは、ナバの解体場の隅で、回っていた。
回っていたのは、目の錯覚だった。長い円筒の腹に、座席の窓が一列に並んでいて、天井の作業灯がその上を移動するたびに、窓が流れて見えた。ケイはハチを外に置いて、モジュールの腹を、掌で叩いた。前の端で、鈍い音が返る。後ろの端で、もう一度叩いた。音が、違った。後ろの端の下のほうだけ、重い水を含んだ音だった。
「タンクは、空だと聞いてる」ケイは手を、叩いた場所に当てたまま言った。水の重さが、手の下で、遅れて動いた。
「表示は空です」解体場の担当が言った。「実際には、見ていませんが」
「抜く時間はない」ケイは叩いた場所へ、チョークで丸を書いた。「曳きながら、考える」
事務所の壁の時計は、八時間目まで、あと四分を残していた。ラズは、机の向こうで湯呑みを持ち、時計を見ていた。急かす様子もなく、遅らせる様子もなかった。持っている書類に、署名の欄が一つだけ、空いていた。
「座ってお待ちになれば」ラズが、机の脇の椅子を、靴の先で示した。
「立ってる」ケイは腕を組んだ。座れば、時計が背中になる。
針が、進んだ。三分。二分。一分。ラズは、秒針が十二を越えるのを見てから、ペンを取った。署名して、担当に渡した。
「権利は、放棄します。契約の日数は、使い切りました」
「俺の四十八時間を、八時間、削ったな」
「ええ。削れました」ラズは、悪びれずに頷いた。「あなたが私の立場でも、同じ日数を使う。私は、そう見ています」
ケイは答えなかった。答える代わりに、モジュールの曳航金具へ、ボウの索を掛けに行った。
* * *
代金は、運転の口座から払った。冷凍庫の仕事のあとに入った三件で、足りた。星の口座には、指を触れなかった。
出港は、十四時間目だった。残りは、三十四時間。
ボウの平たい船体が、前で索を引いていた。ハチは、円筒の後ろの端に取りつき、手すりに右の爪を掛けている。モジュールは、ナバの光を背にして、重たげに動き出した。窓が並び、白い外壁が、星の光を鈍く返す。百二十席の、空っぽの家だった。誰も座っていない席が、闇の中を、整然と運ばれていく。
「速さは、出ない」ボウが言った。「これ以上引くと、索が鳴る」
「鳴ったら、教えてくれ」ケイは言った。索の張りは、手すりを通して、右の爪の付け根に来ていた。
「もう鳴ってる」ボウの声が、乾いた。「鳴ってるのを、聞こえないふりしてる」
「家を曳くのは、これで何軒目?」干した魚の話を途中でやめて、ボウが聞いた。
「数えてない」ケイは前を見たまま答えた。索が、一度、低く鳴った。
「使わないのを祈る家は、初めてでしょう」
「そうだな」ケイは、円筒の窓の列を見た。窓に、星が一つずつ映っている。誰も座っていない百二十の席に、今夜も、誰も座らない。座らないまま、使えるように運ぶ。それが、この家の仕事だった。
三十時間で、コロへ着く計画だった。十四に三十を足せば、四十四。検査は、四十八時間目。四時間の余裕が、その計算にはあった。ケイは、その四時間を、心の中で、拳の中に握った。
その握りが、二十時間目に、緩んだ。
ハチの手すりを掴む右の爪に、小さな振動が伝わってきた。最初は、微かな揺れだった。モジュールが一度、右へ傾いて、戻る。それから、また右へ。傾く幅が、一回ごとに、大きくなっていく。チョークで丸を書いた後ろの端の下から、水の音が聞こえた。大きな水の塊が、傾きに合わせて端から端へ移る。傾きが水を動かし、水が傾きを大きくする。
ケイは手すりを握り直して、通信に言った。
「ボウ、索の張りが乱れてないか」
「乱れてる。右左、右左。周期が長い。ゆっくりだが、大きい」
「減速してくれ」ケイは言った。言いながら、次の答えが分かっていた。
「したら、間に合わない」
「しなかったら、索が絡む」力で止めるには、相手が重すぎた。ハチの腕がどれだけ働いても、何十倍もの重さには勝てない。だが、揺れには周期がある。「引く力が、揺れに合ってる。合わせるな。ずらせ。二秒に一度、半歩、緩めてくれ」
「聞いたことのない理屈。でも、聞いてる時間もない」ボウの船が、息をした。索の張りが、規則を乱して、緩んだり締まったりした。
ケイは右の爪を手すりから離し、モジュールの腹に、そっと触れさせた。傾きが右へ行って戻る、その頂点の瞬間に、逆向きへ押す。二センチ。次の頂点で、また二センチ。手の下で、鉄の呼吸が伝わってきた。左の腕は、使えなかった。遅れる腕は、揺れの頂点に間に合わない。右だけで、押した。
十回。二十回。腕の付け根が熱を持った。傾く幅は、目に見えて小さくなっていく。水の音の間隔が、開いた。十六回目で、ケイは疲れに負けた。頂点の少し手前で押した。押した先が、揺れと同じ向きだった。
モジュールが、大きく振れた。ハチごと、持っていかれた。右の爪が手すりから外れ、座席のベルトが胸に食い込み、窓の外で、星が円を描いた。索が張って、鳴った。ボウの船体が、前で、引き戻される。
「ケイ!」ボウの叫びが、通信の中で割れた。
「生きてる」ケイは姿勢制御を全部使って、回転を殺した。逆さまの視界の中で、円筒の腹が、ゆっくり戻ってくるのが見えた。次の頂点が、来る。押しかけた指を、ケイは止めた。焦って押せば、もう一度誤る。一周、見送った。二周目の頂点で、手を当て、押した。
傾きは、痩せていった。
「……止まった」ボウが言った。「索、静かだ」唸りが、耳から消えていた。
「もう一度揺れたら、同じことをする」
「揺れないように、祈っとく」前を行くボウの船の灯りが、一度だけ、揺れた。
その後も、二度、小さく揺れた。ケイは、そのたびに押した。
三度目が収まったあと、ボウが通信に息を吹き込んだ。
「あの水、着いたらどうする」
「受け架で抜く。表示を空にして、実際も空にしてから、検査官に見せる」
「順番が、逆だったな」
「逆だった。解体場の担当に、次は自分の目で見ろと言っといてくれ」
「伝えとく」ボウは笑った。「あなたが言うより、効くから」
減速の二時間が、計画から消えた。
* * *
四十六時間目に、コロの丸い窓が、闇の中に現れた。
星の光の中で、丸窓が、暗い岩肌の端にあった。窓の内側に、灯りが一つ、点いている。誰かが、待っている。ボウが索を緩め、ハチは、モジュールの後ろの端から、横へ回り込んだ。避難口Bの受け架が、口を開けていた。
「受け側、準備完了」ヴィクの声が、通信に入った。「ゴムも、蝶番も、洗っておいた。ここからは、位置だけ」
「見えてる」ケイは、ハチの灯りを、受け架の縁に当てた。モジュールの先端が、光の輪の中に入ってくる。あと十メートル。あと五メートル。窓の並びが、光を反射した。ケイは声に出して、隙間を伝えた。「右、まだ空いてる。ボウ、そのまま、ゆっくり」
「ゆっくりは、得意だ」
先端が、受け架に触れた。爪が、一つ、閉じた。二つ目。三つ目。最後の一つが閉じる音は、ハチの外壁を震わせて、ケイの座席まで届いた。
「固定確認」ヴィクの声が、静かだった。「接続する。……検査官の連絡艇が、着いた。二時間前だよ」
ケイは、操縦桿から、両手を離した。指が、開かなかった。開こうとしても、握ったままの形で、固まっていた。
「あと二時間」ヴィクが続けた。「針は、あんたの仕事じゃない。ここからは、あんた以外の人の仕事」
ケイは指を、一本ずつ操縦桿から剥がした。左の指は、最後の一本まで、遅れて開いた。
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