第47話 魚の店
連絡便の窓から、コロが遠ざかっていく。ハチの窓でなく、客席の窓から小さくなるコロを見るのは、初めてだった。
岩の表面に、窓の列が点になって並んでいる。あの点の後ろに、椅子と、朝のパンと、置き場のない荷物があった。ここから見ると、三百の灯りは、指の爪で隠れた。工具箱は、修理ベイの棚に置いてきた。肩が軽いと、腕の置き場に困る。ケイは膝に手を載せて、左手が勝手に何かを探すのを、途中で止めた。
ナバの港の通路では、エマが先を歩いていた。背中に制服の皺はなかった。乗員に荷を預けてきた人間の背中だった。
「条件を言う」エマは振り向かずに言った。「一つ、部品の話は十分まで。二つ、数える話は禁止。三つ、魚の骨は自分で外す」
「まだ、何も言ってない」
「昨日から、顔が数えてる。今も、五って言いかけた」
ケイは黙った。余裕は五だった。ユイが指を立てかけて、数えるのをやめ、ケイに預けた数字だった。
店に入る前に、エマを待たせて、通りの木材屋へ寄った。棚に、樹脂と合板の端材が積んである。使う寸法を言うと、店の男が鋸でその場で切った。切り口から木の匂いが立って、鼻の奥まで届く。渡された板は、ケイの手に載ると、思っていたより小さかった。掌より、ひと回り大きい程度だ。
「何に使うんです」店の男は、前掛けの切りくずを払った。
「万力の下に敷く」
「万力。箱の中で寝てるやつですか」
「買った日に、一度掛けただけだ」
「使ってやらないと、拗ねますよ。物は」男は板の隅に、鉛筆で四つ、小さく印をつけた。「穴の位置。ここに」
戸口から、エマが覗いた。「それが、部品?」
「板だ。部品じゃない」ケイは板の角を指で確かめた。
「十分の中に入れる?」
「入れない。使う日が、まだ先だ」
エマは板を眺めて、何も聞かずに先へ歩いた。ケイは板を脇に抱えて、後を追った。歩くたびに、板の角が脇腹に当たった。それが、妙に心地よかった。
* * *
店の奥の席は、氷の棚の裏にあった。棚に並んだ魚が、卓のすぐ脇で目を光らせている。卓が傾いていて、エマの水のコップが、片側へ寄っていった。脚の一本が短い。座金があれば十秒で直る。ケイは膝の上で、拳を握った。エマは何も言わずに、紙のコースターを折って、脚の下へ挟んだ。
「見てたでしょ、脚。触らなかった」
「今日は、休みだ」ケイは握っていた拳を、膝の上でほどいた。
「偉い」エマは笑いを堪えた。コップの水面が、ぴたりと止まっていた。
魚は、皮がついていた。焼いた皮が、箸を入れると小さく割れる。中まで熱い。窓の外では、人が歩いていた。誰の船が何時に出るのか知らない顔のまま、飯を食っていい場所だった。ケイは最初の一口を飲み込んで、皿を見た。
「どう」エマの皿は、まだ手つかずだった。
「これ、オトに焼き方を聞かれる」
「先に、自分の感想」エマは箸の先で、ケイの皿を指した。ケイは、もう一口取った。皮の香ばしさが、骨の際まで続いている。「うまい。前に食った魚より、好きだ」
エマはようやく、自分の皿へ戻った。骨を外す手が速かった。荷の数を確かめる手つきに似ていた。
「ポルカの契約は、更新した」エマは骨を皿の端へ寄せた。「百八十日を過ぎても、七日ごとに寄る。買っても、買えなくても、私はあの口へ寄る」
「買えなかったら、ラズの会社と話すことになる」
「そのときは、交渉し直す。安く寄る気はないから。あなたが買っても、値段は曲げない。今までと、同じ条件」
「安くしろとは、言ってない」
「顔に書いてあった」
ケイは笑った。笑ったあとで、エマの顔が笑っていないのに気づいた。
「百八十日目は、コロにいる?」
「いる。その日は、さすがに」
「私も行く。ポルカはナバで休ませて、連絡便で。船長一人のために、乗員全員を動かさない」エマは皿の魚を見たまま言った。「着いたあと、あなたの時間を、空けておいて」
「全部、空ける」
「買う手続きが先。私は待てる」声の高さが、下がった。ケイはエマの手を見た。索を握り続けた手で、指の付け根が硬い。「私がポルカを買った日は、誰にも言いそびれた。夜に、船の中で、一人で座ってた。何も起きない夜だった」エマの声が途切れて、ケイの箸が止まった。
「だから、見たいの。買った顔を。あなたの都合じゃなくて、私の都合」
うまい返事を探した。答えのつもりの言葉が、口の中で二つ三つ、崩れた。指が、卓の下の、折ったコースターの縁を撫でている。
「じゃあ、ちゃんと買う」
「それは、自分が欲しいからでしょう」
「そうだな」
エマは、まだ温かい皿を、ケイのほうへ寄せた。ケイは、その皿を受け取った。
* * *
店を出ると、港の通路の灯りが、一段落ちていた。夜の時間割だった。エマは連絡便の乗り場まで一緒に歩き、そこで足を止めた。
「私は、明日の朝の便で戻る。あなたは、今夜のうちに」
ケイの端末が震えた。ヴィクからだった。短い一行が届いている。『最終検査の日取り、確定。百七十六日目。立会人の欄に、ラズ』
「見る?」エマが、画面をちらりと見た。
「今日は、休みだ」ケイは端末を伏せた。伏せた掌の下で、画面がもう一度光ったのが、指の腹に伝わってきた。
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