第46話 カーテンを外す朝
カーテンは、思ったより重かった。
窓棟二号の部屋で、父親が脚立の上から最後の金具を外した。長い布が腕に落ちてくるところを、ケイは下から受けた。洗剤の匂いと、二か月ぶんの灯りの匂いがする。布の真ん中に、窓の桟の形をした薄い線が、押された跡になって残っていた。窓一枚ぶんの重さが、ケイの両腕に乗っていた。
「その金具、外す前に下から押して」ケイが言うと、父親は片手で押し上げて、金具をすんなり抜いた。「あ、はい。こうか」
窓の外には、向かいの棟の窓が見えた。二階の卓で、誰かが夕飯を食べている。母親が荷物の数を確かめながら、その窓を横目で見た。
「越してきた日、向こうから丸見えで、慌てて閉めたんですよ」
「俺も一度、じろじろ見て、怒られかけた」
「あれ、あなたでしたか」
ケイは笑おうとして、腕の中の布の重さに、笑いを取られた。寝台の端では、男の子が座って、窓を見ていた。立てば空しか見えない窓が、座ると、向かいの棟の灯りになる。二か月、毎晩、その高さで眺めていたのだった。
「この窓、好きだった」男の子は、独り言のように言った。「次の窓も、座って見てみろ。立つより先に」とケイが言うと、うん、と頷いた。
母親の前の勤め先から、通年の仕事の話が来た。子供の祖父母の家にも近い。父親の仕事は、同じ回線があればどこでもできる。理由は、前に一度聞いた。もう一度説明してもらう必要はなかった。出るのは今日。生活の本拠を移すのは、認定の六十日が満ちる、ちょうど一日前だった。あと一日、と頼めば聞いてくれる人たちだと、ケイは知っていた。延ばしても、その後に出れば、数からは外れる。だから、頼まなかった。頼めば、この人たちは、荷造りの手を止めて、ケイの顔を見る。
「台所の瓶、忘れないでね」母親が言うと、夫は空の手を上げて、「持った」と答えた。
男の子は、玄関へ向かわなかった。本を一冊抱えて、共同室のほうへ歩いていく。ケイは台車の向きを変えて、その道を空けた。
* * *
共同室では、サエの夫が、返却の棚の前に立っていた。男の子が差し出した本の間から、薄い紙が一枚、はみ出している。
「これは、持っていく?」
男の子は首を振った。途中まで読んだ所へ挟んだ栞だった。サエの子供が、隣から覗き込んだ。
「その先、読んだ?」サエの子供が言い、男の子は「まだ」と答えた。
「最後、おもしろいよ」
「言わないで」男の子は短く言って、鞄を背負い直した。大人が笑って済ませられる間ではなかったので、ケイは台車の紐を締め直した。もう一人の子供が、棚から同じ作者の別の本を出しかけて、戻した。荷物を増やす日ではなかった。
男の子は最後に、栞だけを本から抜いた。本は、棚へ置いた。薄い紙を、上着の内側へしまった。
* * *
ポルカの扉の前で、エマが乗客の荷を固定していた。母親に、次の港で降りる場所を伝える声は、いつもと同じだった。
「手前の口から。大きい鞄は、そちらで出す」
父親が、ケイのところへ戻ってきた。深く頭を下げて、その形のまま止まった。
「認定の、一日前で。数に入れなくて、すみません」
「出る日は、あんたが決める日だ」ケイは言った。「それだけだ」
「はい」父親は顔を上げた。「それと、カーテン。捨ててもらって、いいです。次の家、窓の大きさが違うので」
「捨てない」ケイは布を、台車の上に畳んで置いた。「窓の合う人が見つかったら、代金を連絡する。見つからなかったら、それも言う」
「急がなくて、いいです」
「急がない」ケイは布の端を畳みながら答えた。父親は頭を下げて、船の入口へ向かった。男の子は、その後ろを歩いていて、振り返らなかった。入口の枠に手をかけたところで、一度だけ、こちらを向いた。上着の内側から栞を出して、小さな旗のように、高く上げた。すぐにしまって、船の中へ入った。
ケイは手を上げようとして、肩の高さで止めた。止めた手を、腕の重さに任せて下ろした。何かを言おうとしていた。戻ってこい、でも、元気で、でもなかった。言葉になる前に、扉が閉まった。
* * *
その日のうちに、ユイが廊下で、黄色を三区画、剥がした。扉の向こうに残った黄色は、五つになった。ユイは何も言わず、剥がした三つを、指で丸めて、ポケットへしまった。
カーテンは、修理ベイの壁に釘を打って掛けた。畳んでしまえば、棚が一つ埋まる。掛ければ、窓の形をした布が、壁の一面になる。ケイは札に、『窓の合う人、募集。代金は相談』と書いた。ヴィクが通りがかりに札を見て、鼻を鳴らした。
「捨てられない人の言い訳が、また一つ増えた」
「言い訳じゃない。募集だ」
「期限は」
「窓の合う人が見つかるまで」
「それを、言い訳って言うんだよ」ヴィクは鉢の台車を押して、ベイの奥へ消えた。
ケイは二号の部屋へ戻り、床を拭いた。寝台の下には、何も残っていない。窓は、カーテンがなくて、広かった。向かいの棟の卓が、まだ見えている。
部屋を出ようとして、ケイは足を止めた。扉の枠の内側に、鉛筆の線が、四本、引いてあった。横に、小さな日付が添えてある。低い所から、高い所へ。いちばん上の線は、昨日の日付だった。
枠は、塗り直さなかった。札だけ替えて、そのまま、次の家族に渡すことにした。
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