第45話 蓋を開けて、受け取ってくれ
「手は、ポケットに入れてください」
言ったのは、荷主の係員だった。白い上着の若い女で、庫の扉の前に立っている。ケイの右手が、留め具へ伸びかけたところだった。
「扉の蝶番が、渋いかもしれない」
「渋ければ、こちらで直します。開けるのは、受け取る側です」係員は、ケイの手が戻るのを待ってから、自分の手を取っ手にかけた。
冷気が、ホールの床へ滝のように落ちた。白い靄が広がって、その奥から、荷札のついた箱が、段ごとに並んで現れる。魚の目が、氷の上で光っていた。ケイは一歩下がり、両手をポケットへ入れた。指が、中で勝手に、蝶番の動きを確かめている。
タナの受け側は、セトから二日かけて運んだ先だった。三基は昨日のうちに据えられ、電源も引き継いで、いまはタナの線で唸っている。ケイは今日、運んだ側の人間として、立ち会っているだけだった。係員は庫を一つずつ開け、荷札の番号を照らし合わせていく。運ぶ前は閉まった扉が、運んだあとも同じとは限らない。脚の傾き、扉の閉まり、冷却機の音。係員の目は、故障を探す目ではなく、受け取る物を確かめる目だった。
三基目の前で、その手が止まった。「切り替えの記録に、九秒があります」
「聞いてる」
「庫内は、上の段の隅で、一度だけ零度三分動いています。許容の中です」係員は、上から三段目の箱の蓋を外し、指を氷の中へ入れた。「確かめます」
ケイはポケットの中で、拳を握った。開けさせて、受け取ってもらうことは、運ぶより、待つ時間が長かった。魚の腹が指で押され、氷が細かく割れる。係員は温度計を差し込み、数字を読み、荷札に鉛筆で丸をつけた。
「所見付きで受領します。九秒は、次回、四秒にしてください」
「分かってる」
「分かっているなら、次回は書かなくて済みます」係員は、ちらりとケイの顔を見た。「手、出してもいいですよ。扉を閉めるとき、一緒に押してください」
ケイは両手を出した。庫の扉が、二人の手に押されて閉じた。蝶番は、渋くなかった。
ホールの外では、トレイが空いた荷台に、別の荷主の箱を積んでいた。干した果物の箱が、荷台の端まで、きれいな壁になっている。船長が窓から鉛筆を振った。帰りの荷は、時刻どおりに載った。
* * *
翌日、残金が入った。着手金と合わせて、七十二万。
ケイは出発前に分けておいた仕事の口座から、順に払った。ボウ、トレイ、リレー、タルク。現地の作業員。燃料。仮設の電源。保険。名前と金額が、画面から消えていく。タルクからは、受領の返事の代わりに、湯気の立つカップの写真が一枚だけ届いた。リレーの船長からは、短い返信が届いた。巻き取った線の写真が付いていて、ねじれは一つもなかった。「次は、庫を空にしてくれ」と添えてあった。
ボウの返信は、一行だった。「褒め言葉は無料にしといた。感謝して」。ケイは「感謝する」と返して、「請求書の三行目は、感謝の外」と付け足されたのを見て、笑った。
払い終えて、最後に残った数字は、三十一万八千だった。七十二万と聞いたときより、この数字のほうが手に残った。消えた名前の一つ一つに、顔があるからだった。ケイはそれを、星の口座へ移した。二十六万八千が、五十八万六千になった。あと一万四千。三時間暗かった夜に抜いた六万は、戻っていた。戻って、その先まで来ていた。
「運転はどうするの」ヴィクは覗き込まずに、聞いた。
「入金が、今週、三件ある」
「三件は、入るまで三件じゃない」
「分かってる。一万四千は、通常の入金から足す」
ヴィクは腕を組んだ。何かを言う代わりに、鉢の葉を一枚、指先で撫でた。
* * *
百四十七日目の夕方、ユイが廊下で、黒い線を測っていた。
床の上に、黒い細線が、黄色の下を伸びている。ユイは折り尺を当てて、指で数えた。扉の向こうの黄色は、八区画に縮んでいた。ラズの卓を立った夫婦と、大鍋の夫婦が抜けた分を、ユイが自分の手で剥がした。
「黒は、二十メートル。今日、二百になった」ユイは折り尺をたたんだ。「あと十メートル」
「六十日を数え終える組は、あと何組だ」
「七組。最後は、百二十日目に来た十一人。その日が、百八十日目」ユイは折り尺をくるくる回した。「ちょうど、なんだよね。ちょうど届く。それが、いちばんこわい」
「余裕は」
「今、八」ユイは指を八本立て、片手で数えるのをやめて、両手を下ろした。「ケイが数えて。私、数えると、放送で言っちゃうから」
ケイは自室で、その週の入金と支払いを一枚にまとめた。差し引きの残りから、一万四千を星の口座へ移した。五十八万六千の欄が、六十万になった。親指を画面から離して、もう一度、開いた。六十万だった。
最初に二千を分けた日には、いつ埋まるのか見当もつかなかった。外装板を外した。ポンプを直した。部屋を貸し、荷を渡し、でかい物を、他人の船と動かした。今日、その金で払える値段になった。ケイは口座を閉じて、また開いた。六十万だった。
「三回目」後ろで、テツが言った。
ヴィクが無言で端末を取り上げ、ケイの手の届かない棚の上に載せた。
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