第40話 三百、越えました
北宿舎の壁は、長かった。
検査は午後に通っていた。五十六人分の使用可の通知が届いて、コロの居住容量は三百六十になった。ケイは夜の廊下を、一人で端まで歩いた。台所の棚はまだ空で、扉には誰の名前もない。窓のない一人部屋の隣に家族用の広い部屋があり、その奥に、何も掛かっていない壁が扉三枚ぶん続いていた。
何かを掛けたくなる長さだった。工具棚なら、ちょうど収まる。指が、壁の高さで勝手に寸法を測っていた。ケイは手をポケットへ戻した。ここは、住む人の壁だった。
発電機室の前を通ると、若い保守員が盤の蓋を開け、内側を頭灯で照らしていた。蓋の裏に、太い字が並んでいる。型番、日付、交換した理由。頭灯で読める大きさだった。
「ヴィクさんが、全部の盤にやれって」保守員は照れたように言った。「最初のは、ケイさんの字です。真似しました」
「俺の字は、汚い」
「読めます」
ケイは何も言い返さず、蓋の裏の日付の欄を指で叩いた。日付の書き方が、一か所だけ違っていた。教える前に、保守員が自分で気づいて直した。
* * *
その夜、修理の問い合わせが一件届いた。エマの取引先の紹介で、貨物船の船長からだった。添付の映像を開いた途端、ケイは椅子を引き寄せていた。船腹の回転継手に、太い軸が噛んだまま外れなくなっている。継手の周りの錆。軸の根元に入った、細い傷。こういう場所へ腕を入れる仕事は、やりたかった。指が、映像の中の軸を勝手になぞっていた。
次の映像で、船の全体が出た。コロの接岸口が、十個入りそうな大きさだった。
「部品を外して送ってくれるなら、受ける。船ごとは、うちの口に入らない。長い軸を抜く足場も、ここにはない」
「外せないから、聞いてるんだよ。うちの船は、そっちの口より腹が長い。分かって言ってる」船長は怒っていなかった。怒られたほうが楽だった。
「近くの整備港の空きは、こっちで調べる。俺が言えるのは、そこまでだ」
通信が切れたあと、ケイは映像を保存した。消さずに置く物が、また一つ増えた。窓の外の星が、いつもより小さく見えた。
* * *
翌朝、オトは厨房で一番大きな鍋を火から降ろし、底を覗いていた。焦げ付きは、爪ほどの薄い層だった。
「二百人分で、この鍋は焦げる。三百人分は、鍋の話じゃなくて、火の順番の話」オトは柄杓で縁を叩いた。「昼の煮込みを二回に割る。パンの窯は二段目まで使う」
「増えた分の鍋は、買わないのか」
「買わない。鍋を増やすのは、置く場所を増やすことだから」オトはケイの目を見た。「あんたの箱と、同じ話」
「俺の箱は、鍋よりよく働く」
「鍋は、毎日食べ物を出してる」
ケイは反論の材料を探して、鍋の底の焦げを見つめた。
* * *
昼前の便で、十八人が下りた。
食堂の入口から始まる黄色は、廊下を三つ曲がり、最後の直線に入っていた。接岸口の扉まで、残りは十七区画。ユイが黄色のマーカーを十八本、床の上に並べた。一人に一本、という数だった。
三人家族が、順番にしゃがんだ。夫婦が、続けて塗った。単身者が、一秒で塗り終えた。黄色の縁が、扉へ向かって一区画ずつ縮まっていく。マーカーの先が床を擦る音が、廊下に重なった。
四人家族の父親が、扉の三つ手前を塗った。母親が、二つ手前。兄が、一つ手前。
最後に、いちばん小さい女の子が、マーカーの蓋を口で外した。舌の先を出しながら、扉の真ん前の十センチを、端から端まで塗り潰した。はみ出した黄色が、白い縁に食い込んだ。ユイが、それを止めなかった。
立ち上がった子供は、袖で手を拭いて、黄色い筋を腕につけたまま、母親の手を握った。
「ぬれた」
「上手。端まで、ちゃんと」母親が、腕の筋を指でつついた。「洗えばおちるから」
「おちない」子供は真剣な顔で言った。「ユイさんが、おちないやつって言った」
扉の敷居のすぐ内側で、黄色が終わっていた。三百人分の帯が、扉の前に届いた。その先には、敷居と、客の廊下しかない。
まだ一人、残っていた。最後の単身者の男は、マーカーを持ったまま、敷居の前で固まっていた。
「ここも、ですか」
「そこは客の廊下」ユイは腕を組んだ。「でも、あなたの分。ぜんぶ越えるのは、今日だけ特別」
男は、敷居の上にしゃがんだ。黄色が、床の継ぎ目をまたいで、扉の向こうへ一区画だけはみ出した。
廊下の奥で、テツが息を吸う音がした。
「三百、越えました」
声が、小さかった。ケイは横に並んで、敷居の黄色を見た。
「住んでる人はな」
「認定は、まだですね」
「まだだ」ケイは膝をつき、敷居の縁で浮いていたテープの端を、指の腹で押さえた。糊が戻って、黄色は床に貼りついた。「でも、こっちも、本当に増えた」
テツは頷いて、そのまま戻ろうとして、もう一度、黄色の先端を見た。ケイも、同じことをした。
十七人だった日の、白いテープを思い出した。二百八十三人分の白が、廊下の角の向こうへ消えていた。あの白は、もうどこにもなかった。
「黒は、どこまで来てる」
「食堂の入口から、十一メートル四十」ユイは、定規も出さずに言った。「扉まで、あと十八メートル六十」
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