第39話 窓の高さを知っている
「台車は、一台ずつです」
テツは人差し指を立てて、昇降台の縁に立ちふさがった。ケイは台車を二台、縦に重ねて押していた。上の一台が、下の取っ手に体重を預けている。
「載るだろ」
「載ります。載りますけど、試験の紙は台車を一台で想定してるんです。そこへ余分に載せて通ったら、通った記録が嘘になります。落ちたら、検査官は三号ごと疑います」テツは一息で言い切った。耳が赤い。「僕、昨日、同じことをして、記録を撮り直したので分かるんです。台車じゃなくて、僕の椅子でしたけど」
「椅子を載せたのか」
「載ってはいけないって、どこにも書いてなかったので」
ケイは上の台車を下ろした。底に留める物が一つ減り、残りの一台は、それだけで軽く見えた。
窓棟三号は、昨日の夕方に曳かれてきて、外壁の留め具が全部締まったところだった。中の荷物用昇降台は、階と階の間を、台車ごと運ぶ。検査は明後日。電気室の扉の前には、細い字の札が下がっていた。『盤は保守員が触る ケイは触らない ヴィク』。太いペンで書けば筆跡が笑うので、わざわざ細く書いたのだと分かった。ケイは扉を一度も見ずに前を通った。手の置き場がなく、代わりにポケットへ入れた。
昇降台が動き出した。モーターの音が、一定の高さで続く。悪くなる前の機械は、必ず音が変わる。今日は変わらなかった。テツは降りる速さと止まる位置を記録している。止まる位置は、床の目印と、爪一枚分ずれていた。
「ずれ、直りますか」
「爪一枚は許容の中だ」ケイは工具箱へ手を伸ばした。箱は廊下に置いてきたのを、指が空を掴んでから思い出した。
* * *
昼過ぎの廊下で、ユイが床に膝をついていた。黒いペンの先が、黄色の縁に沿って、十センチだけ動く。ペンを上げて、線の端を指で押さえた。
「これで百二」ユイはペンの蓋をはめて、顔を上げた。「あの日に来た組が、今日で満期。おめでとうございました、って全員に言ってきた」
黄色は住んでいる人の分で、廊下の角を二つ曲がって伸びている。その下の黒は、六十日を数え終えた人の分だ。買うときに数えるのは黒のほうだと決めたのは、ユイだった。黒は、黄色よりずっと手前で途切れていた。
「遅いな、黒は」
「六十日は、そういう長さ」ユイは指先で線の端をなぞった。「急いで引いたら、ただの落書きになる」
食堂の入口から、黒は細い一本になって、黄色の下を先へ進んでいく。線の端の先には、黄色だけの長い帯が続いていた。ケイはしばらくそれを見ていたが、数え始める前に目を離した。
* * *
検査が通った。その翌日、ポルカから降りた四人家族が、三号の二階の部屋に入った。案内はサエがしていた。父親は窓の前に立って、外を見ている。
「向きを替えられますか。寝台」父親が言った。「窓が、思ったより高くて」
「十分で」ケイは工具袋を開けた。窓の縁は、ケイの胸の高さにある。標準の高さだった。標準は、標準の背丈にしか合わない。
「その前に」サエが袋の口を軽く押さえた。「座ってから、窓を見てください」
父親が寝台の端に腰を下ろした。母親も隣に座った。七つの男の子は、床に近いところから窓を見上げていた。
「空しか見えない」子供が言った。
母親が首を伸ばした。「私は、下の家の屋根が見える。灯りが点いてる窓も」
父親はもう一度、立ち上がって窓を見て、また座った。座って見た景色のほうが、部屋の中に近かった。
「これ、うちの子も同じことを言ってました」サエが窓枠を指で撫でた。「立った大人が決めた窓は、大人の窓です。一日の半分は座って、寝ている人が見るのに」
「向きは、そのままでいい」父親が言った。
ケイは袋の口を閉じた。窓の高さなら、立って測って、寸法を直すつもりだった。直す前に、見る人の高さを聞く順番だった。ケイが閉じた袋の口を握ったままでいる間に、サエは、寝台に子供を座らせた。
「窓の下に棚を付けたら、空も見える?」
「棚は、あとで俺が」
「あとで、じゃなくて、先に相談してからね」サエが言った。
「先に相談してから、付ける」
廊下から、小さな折りたたみ椅子を提げたユイが顔を出した。椅子を部屋の真ん中に置いて座り、端末を膝の高さに構える。窓が、ちょうど画面の中央に入った。
「案内の写真、これから全部、座って撮る。ケイ、工具袋が写ってる」
「どける」
「広さが分かんなくなるの。あなたの荷物は、いつも部屋を三割せまくする」
ケイは袋を廊下へ出した。袋が消えると、部屋は本当に広く見えた。ほんの半拍、腹が立った。
* * *
引き渡しが済んだ夕方、父親が廊下でケイを呼び止めた。上着の内側から、折った紙を出す。
「これ、ナバの港の掲示板に貼ってあったんです。見に行くだけ、行ったんですが」
ケイは紙を広げた。住宅の案内だった。リムの保守施設にあった大きな棟の写真が載っている。六十四人分。賃料は、コロより三割安い。引っ越しの費用は、貸す側が持つと書いてあった。
「行かなかった理由は」
「座ってみたら、こっちの窓のほうが良かったので。それだけです」父親は苦笑した。「でも、安いんですよね」
「安いな」ケイは言った。それで、言えることは尽きた。
父親が部屋へ戻ったあと、ケイは紙の写真を長く見ていた。窓が二列、並んでいる。見覚えのある窓だった。ハチの指が、その窓の下の金具に、まだ届くはずの家だ。
紙の隅の小さな文字に、回収会社の名前があった。
写真の窓には、灯りが点いていた。解体するはずの家に。
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