第37話 来月も、ここにいる
百日目の朝、オトは来月の仕入れを相談していた。厨房の壁に貼った大きな紙の真ん中に、豆と粉の量が並んでいる。オトは鉛筆の尻で、紙の一番下の行を叩いた。そこに、『来月』と書いてある。鍋の前で足を止めて、ケイはその二文字を読んだ。この食堂の紙にその字が載るのは、初めてだった。
「葉っぱが増えたんじゃなかったか」
「葉っぱだけで、その腹が満ちる?」オトは、ケイの腹を鉛筆で示した。
満ちなかった。生鮮区画からは、今も細々と葉が出る。煮込みに足す香りの強い物も届いたが、主食も肉も、町で使う野菜の大半も、船で買い続けている。入口でマコが、自分の分の納期を確かめた。
「来月は、こっちの棚も使えるから、増やせる」
「増えた分を、全部買うとは言ってないよ」
「外にも売るわよ」マコは、負けずに紙の隅を指で弾いた。二人の間には入らず、ケイは今日の皿を取った。選べる物が増えたから、どれを売るかで揉められる。
* * *
その日の入居者は、十人だった。家族連れが二組に、一人で来た人が三人。ポルカとは別の有料の連絡便で、空いている接岸枠を使った。来る前に部屋を確かめてあって、ユイは使える鍵だけを用意していた。荷物の多い四人家族の父親は、仕事場までの距離を、もう一度歩いて確かめている。単身者の一人が、窓口で家賃の支払日を聞いた。
「毎月にできる? 仕事の入金が、月一回なんだ」
「できる。日は、あとで選んで」ユイは条件の紙を、男のほうへ滑らせた。
星が好き、とか、船を直したい、とか、そういう話は、誰の口からも出なかった。ケイも聞かなかった。家賃の日と、仕事場までの距離と、晩飯の場所。誰もが、そういう理由で、ここに住んでいた。荷解きが済んで、住民は二百三十一人になった。新しい家族の子が、窓棟一号の階段へ行こうとした。
「二号は、こっち」先に住んでいる子が呼んで、手すりの所で待っていた。空になった台車を、ケイは案内板の下で引いた。
* * *
共同室では、学習の時間が終わっていた。子供たちが端末を片づけ、借りた本を戻す。夕方に盤で遊ぶ人のために、机の真ん中だけは空ける約束になっている。ミナは、その約束を守りながら、栞だけ別の所に挟んでいた。
「そのページ、まだ読んでないだろ」サエの子供が言った。
「明日、ここから読むの」ミナは本を、一番低い棚へ戻した。
サナが迎えに来ても、ミナはすぐには立たなかった。見学のときは、次に来られるか分からない本だった。今は、明日の席の心配をしている。アラタは、四日後の便で、ナバの短い通信設備の仕事へ行くと言った。
「戻るのは、百八日目。部屋の棚が、まだ半分組んでないんで」アラタはソウへ、帰ったら続きをすると約束した。
「棚、大きい方だよね」
「大きい方って言うと、全部大きいんだよ」
ケイは出発の便と、荷物の枠だけ伝えた。ミナの栞は、一番低い棚の本の頁の間に、昨日と同じ位置にあった。棚には、手を触れなかった。約束は、守っている。
* * *
昼過ぎに、修理品の受領と入金が届いた。通常の仕事の入金と経費は、もう記録に入れてある。今日は、通常の仕事で残した金から、さらに六万を、星の口座へ移した。口座は三十二万八千になった。借りた金でも、これから届ける仕事の前金でもない。買うまでに要るのは、あと二十七万二千。
タナの会社から、問い合わせも届いていた。橋は予定どおり動いている、と最初に書いてある。続いて、別の設備の写真があった。解体せずに移したいが、同じ組で調べられるか、という相談だった。受注はまだ決まっていない。ケイは写真の裏側を頼み、ボウの船長に、現場を見られる日があるか尋ねた。アーチの枠を思い出したが、そちらの資料は開かなかった。
夕方、食堂でユイの番組が流れた。到着の案内と店の営業時間は、もう先に終わっている。今は、住民から届いた、買ってよかった小さな物の話だった。
「本棚の留め具です」サエの夫の声が、スピーカーから出た。ケイの胸が、勝手に張った。次の人は鍋の蓋、その次は耳栓だった。向かいに座るヴィクは、鉢の台車、と答えるつもりで、葉の写った写真を選んでいる。
「町で一番でかい物を選ぶ回じゃないぞ」
「台車は、小さいよ」理屈は向こうにあった。ケイは皿へ戻った。窓の外に、青と黄色の家が見える。その後ろに、二つの窓棟。南と東の廊下にも、明かりが残っていた。
「来月も、ここで仕入れる。帰ったら、棚を組む。明日、本の続きを読む」ケイは箸を置いた。声に出すと、どれも、どこにでもある言葉だった。「その続きを置く場所を、買いたい」
「三つ目の窓棟」ヴィクは、葉の写真を伏せた。「ナバの業者の、同じ型。棟の発電機と処理装置も、一緒に戻す。電気と水は、今ある余りに期待しない。それと、北」
「北?」
「東の先で閉じてる、旧い住宅列。五十六人分。ただし、今は一人も寝られない」
新しく暮らす人の最後の目安は、百二十日目。ケイは頭の中の紙に、あと六十九人ぶんの暮らしを、書き足した。
* * *
北の宿舎は、東の先の暗い通路の奥にあった。
ヴィクが扉を開け、灯りを奥へ向けた。壁に古い戸棚が並び、床には、時間だけが積もっている。ケイは奥へ進み、戸棚の扉を一つ開けた。中に、ねじが一本、転がっていた。指で拾い、光に透かした。
「まず、捨てる物を出す仕事なんだけど」ヴィクが後ろから言った。
ケイはねじの頭を、親指で撫でた。四十日前の自分の山を、思い出した。
「一本くらいなら、減らした方だろ」
ポケットへ入れた。まだ使えるかどうかは、あとで見る。戸棚の向こうの部屋の入口のほうが、今日は、欲しかった。
食堂へ戻る廊下で、床から、低い唸りが靴底に届いた。南棟の予備発電機だった。いつもより、半音低い。ヴィクの足が、一歩、止まった。
「夜の負荷が上がってる。近いうちに、全部の負荷で回して確かめる。部品は、取り寄せてある」ヴィクは床を、爪先で軽く叩いた。
「手が要るなら、言え」
「言う。そのときはね」
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