第33話 ハチが小さくなる場所
返却の待機路を進んでいる途中で、窓の上から星が消えた。
白い、太い枠が、空を横切っていた。影の黒さはなく、塗装の白さが、案内灯を返している。ケイは艇を止めた。
「ここ、通っていいのか」
「案内灯の内側なら。上の整備枠には触れないで」港の当番の声が答えた。
灯りの列を確かめてから、進んだ。枠の下へ入っても、反対の端は窓に収まらない。船を迎え、固定し、外側を直すための、巨大なドックだった。左右へ伸びる整備腕は、折り畳まれたまま、空に浮いている。関節の一つが、ポルカの船体ほどあった。腕の下には足場の通路が走り、その壁に、小さな扉が等間隔で並んでいる。人が普通に通れる大きさの扉だった。そう気づいた瞬間、枠がもう一段、大きくなった。
固定架の爪の間隔を、ハチの全長で数え始めた。二十まで数えて、やめた。案内灯の列は、枠の下を、遠くの一点へ向かって細くなっていく。列の終わりまでの距離を、目で測ろうとして、それもやめた。橋を運んだ三隻を横に並べても、この枠の一辺にすら足りない。
整備腕の先には、工具の棚が下がっていた。ソケットの一つが、ハチの胴と同じ太さだった。人の背丈の倍もある把手が並び、その一本一本の握りに、擦れた跡が光っている。誰かの手が、あれを握っていたのだ。ケイは自分の掌を見た。ハチの操縦桿を握るための、小さな掌だった。
先日運んだ荷役橋は、下へ置いても、周りにまだ作業の場所が残った。ここでは、ハチが整備腕の一本の横へ、すっぽり隠れる。爪の根元には、古い船腹の塗料が擦れて残っていた。ここへ寄った船の大きさを想像すると、コロの丸い接岸口が、急に小さな栓に見えた。
「……でかいな」
口から出たのは、それだけだった。カメラを広い画角に替えても、両端は入らなかった。
* * *
返却先の係員が、待ちかねたように通信をよこした。
「荷下ろしできるよ。道、分からなくなった?」
「道は分かる。これを見てた」映像を送ると、係員は名前を先に言った。
「アーチ。うちの大型整備ドック。今は船がいない。大型の便は別の航路へ移って、こっちは保守港を閉める段取り。荷役橋みたいに、売れる物から順に渡してる」
動かす客のいなくなった設備が、形を残したまま、待っている。ケイは空の固定架を見た。この中へ船が入り、外装の板を外す。船を囲む足場が、最初からある。長い部品を抜いても、置き場を探して回らずに済む。想像の中へ、ポルカを置いた。余った。もっと大きな船が、入る。
先に、借りていた金具を返した。傷と数を係員に確かめてもらい、受領を取る。ドックに見とれて、まだ自分の物になっていない物を置き去りにするほど、腑抜けてはいなかった。
係員が、売却の案内を出してくれた。主な枠を一体で引き取る場合の参考価格が、百四十万。
ケイはもう一度、桁を見た。
「運んで、使えるところまで?」
「本体の目安。運ぶ船も、持っていく先の工事も別。外す付属品をどこまで残すかでも変わる。正式な見積は、調査してから」
「丸ごと引き取る話も、受けるんだな」
「受ける。解体の買い付けだけに決めたわけじゃない」
案内の末尾に、所有者と問い合わせ先があった。宙に浮いていても、誰かの物だった。資料だけ受け取って、申込みの欄は開かなかった。
* * *
通信の端に、コロからの呼び出しが光った。テツの声だった。
「ケイさん、キューが、やですを取り下げました」
「何だ、それ」
「倉庫Bの奥の大扉です。ヴィクさんが計器を替えて、空気を測り直したら、キューが『確認しました。やです、を撤回します』って。鎖はヴィクさんが切りました。写真、送ります」
画面が切り替わった。倉庫の奥で、三人並んで通れる大扉が、内側へ開いている。奥は、倉庫Bより一段、天井の高い部屋だった。埃を被った布が、何かの上に掛かっている。布の端がめくれて、その下に、太い胴が見えた。人の背丈ほどの径の巻き胴に、綱が二重に巻かれ、床には大きな鉤が転がっている。
「触るなよ」ケイは写真を拡大した。胴の側面の銘板が、埃の下で、かすかに読める。曳航用の、大型の巻き取り機だった。「動くかどうか、電源は、俺が見る」
「ヴィクさんにも、同じこと言われました。ケイさんが帰ってくるまで、布は戻しておきます」通信が切れた。
通信が切れても、写真は画面に残した。目の前の百四十万の枠と、コロの奥で埃を被っていた巻き胴が、同じ画面の中に並んだ。大きな物を動かす道具は、もう手元にあった。使える形かどうかは、別の話だった。片手で口を押さえた。笑っているのか、口を閉じているのか、自分でも分からなかった。
「これ、丸ごと持って帰れないか」
今度は、通信を切っていた。ケイ一人の声が、狭い操縦室に残る。下へ入れることと、運べることは、全然違う。タルクが一隻来れば済む重さにも思えない。つなぐ電気も、受ける船も、今のコロには足りていない。星の口座を開くと、二十六万八千と出た。六十万までは、まだ三十万以上ある。その先に、この枠が立っていた。資料を閉じる。今ある家の暮らしを止めて、空の大きな枠へ金を流すつもりはなかった。
ただ、案内の映像だけは、消さなかった。
* * *
出港の道へ艇を向ける前に、ケイはもう一度、枠の下を通った。今度は、写真に収めるために、離れた。離れても、まだ大きい。窓の縁に、自分の手が映っていた。小さな操縦桿を握っている。
港のカメラが、外から撮った映像を送ってくれた。白い枠が空いっぱいに広がり、整備腕が、その端から端へ渡っている。枠の下に、点が一つあった。
黄色い点。
指で探して、ようやく、それがハチだと分かった。
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