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星を買うには三百人  作者: 雅龍(がりゅう)
第3章 ここに住む理由

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第31話 小さい船を、そこへ

 橋が動き始めたとき、ハチはまだその下にいた。


 六十九日目。作業員は全員、足場の向こうへ退いている。ケイは床の下の暗がりで、ハチを受け金具の横に止めていた。窓の上、床の溝を貫いて、橋の低い金具が二つ垂れ下がっている。金具に繋がった綱は、昨日付けた受け金具を回り、骨組みの角を避けて、暗がりの外へ出ていった。その先に、タルクの船腹がある。


「合図の順は、頭に入ってるな」タルクの声が、朝から低い。「俺は張る。ボウは持つ。お前は」


「下で見て、言う。持ったと返事が来るまで、緩めない」


「それでいい。昨日みたいに早く言わないで」ボウの船長が、茶を置く音をさせた。


「言わない。今日は、綱を見てから言う」


「タルク、牽引、入れる」


「ボウ、後ろの綱、保持」


「ハチ、下の様子は」責任者の声が、二つの返事の間に挟まった。


「綱は受けの上。角には触ってない。いつでも」ケイは自分の呼吸を、綱の張りに合わせた。


「張り、三割。五割。まだ動かん」タルクが数字を読み上げる。「……八割」


「動いた」ケイは声を落とした。金具が低く鳴り、床の溝に沿って、橋がゆっくり後ろへ流れ始める。家を曳いたときより遅い。遅いからといって軽くはなかった。一度傾けば、ハチの腕で支え直せる大きさではない。窓の上を、金具の影が一定の速さで通っていく。受け金具の脇で綱が骨組みの角を回るたびに、ケイの耳の奥で、小さな鈴のような音が鳴った。昨日、座金を三枚重ねた低い角は、少しも動かない。


 床に引いてある線を一つ越え、次の線まで来たところで、橋の後ろにつく金具が柱の陰へ隠れた。「前の足、溝を出ました」責任者が読み上げた。


「前、抜けた」タルクの声も、遅れて入った。


「奥の足は残ってる。その力のまま。起こさないでくれ」


 前の足は溝から出て、自由になった。奥の足は、まだ溝の中だ。ケイはハチを横へ滑らせ、首だけ伸ばして柱の向こうを覗いた。見えるものは変わらない。変わったのは綱だった。受け金具を回る綱の向きが、右へ、髪の毛ほど傾いている。


 奥の足が、先に出ようとしていた。溝の余裕が三センチという図面は、たぶん、左右で釣り合っていない。右側の縁だけが溝の壁を擦り、橋が、じわりと回ろうとしている。回れば、長いレールが柱に噛む。ケイは受け金具に映る綱の影を見て、ハチを半回転させ、窓の隅に、奥の足の黒い角を捕まえた。幅は残っている。だが向こう側だけが、先へ進み始めていた。


「ボウ。右の綱を戻して。左はそのまま」


「戻す。右だけ」ボウの船長の返事が、短かった。


 綱の傾きが、受け金具の上でぴたりと止まった。二本の足の線が、揃う。ハチの腕で押して直す物ではなかった。綱一本の、指先ほどの動きで済んだ。ケイは息を吐いた。


 そのとき、綱を伝って、音が来た。コ、と鳴った。金属が金属を撫でる、乾いた音。奥の足の縁が、柱の覆い板をかすめた音だった。座席に、指の腹ほどの振動が届いて、消えた。


「今の、聞こえたか」


「何がだ」タルクが聞く。責任者の声は、返ってこなかった。


 ケイは音の位置を頭の中に打ち、口をつぐんだ。誰にも聞こえていないなら、報告書に、自分で書けばいい。


 橋の動きが、遅くなった。綱が受けの縁を擦る位置まで、もうすぐだ。ここで、引き方を換える。


「タルク、そこで止める。ボウに渡す。ボウが持ったと返事をしてから、こっちが緩める」


 橋が止まった。止まったのは目に見えるだけで、綱はまだ生きている。柱の角と橋の角を見比べる。橋が、わずかに寄ってくる。


「ボウ、保持」


「保持した。そっちの受けを緩めていい。後ろは、うちが全部持ってる」


「タルク、緩めてくれ」ケイは合図を出した。張っていた太い綱が、たるんだ。橋の腹と床の骨組みの間には、さっきより細い道しか残っていない。ケイは艇の鼻を正面から入れず、右腕を畳み、斜めに滑り込ませた。窓の真上に、橋の影が来る。下にも梁がある。逃げ場は、上にも下にもなかった。右腕だけを伸ばして、緩んだ綱の端を受け取る。腕に来るのは、綱と金具の重さだけで、橋の重さは、ボウが受けている。左腕は、まだ使わない。両腕を広げる場所は、ここにない。


 綱の端を、鼻の近くにまとめて持った。新しい引き方の金具へ向ける。金具の穴が、半分、橋の影に隠れた。腕は伸ばし直さずに、ハチを半歩ぶん回した。窓に映る二つの縁が、一つに重なった。留めを差す。入る。奥まで入った。


「閉鎖、確認」責任者の声が届いた。すぐには手を離さなかった。タルクの綱が、曲がらずに橋へ伸びている。力が、指先から、その線へ移っていく。ハチの腕が、軽くなった。


「渡った。ハチ、出る」


 後ろへ下がった。入ってきた狭い道を、全長の三つ半、数えなくても体が覚えていた。橋を抜く前に、自分の艇を外へ出す。最後の骨組みが窓の上から消えたとき、前には、黒い空が広がっていた。


「タルク、そのまま直進。後ろの角は、見えてる」


 橋が、動いた。


 一本目の柱から離れた。二本目の柱に残っていた足も、今度こそ、溝から抜けた。鉄の陰にあった星が、橋の下に、細く、現れた。ハチを上へ回して、ケイは初めて、橋の全体を見た。


 長いレールが、端から端まで、一本の線になって伸びていた。黄緑の作業灯が、その線の上を、順に滑っていく。黒い空と、鉄の一本線と、その下に流れる星。曲がっていない。橋は宇宙の真ん中で、ただ、真っ直ぐに浮いていた。


 曲げずに、出た。


 足場の作業員が、帽子を振っていた。通信の向こうから、歓声が割れて入ってくる。責任者の声が、いつもより高い。


「出ました。曲がらずに、出ました。レールは、一本のまま」


「見えてる」ケイはそれだけ言った。


「奥の足は、見えてたのか」ボウの船長が聞いた。


「見えてない。綱の傾きで読んだ」


 ケイはそれきり口を閉じた。右の指の当て板が綱で擦れて浮いているのに気づいたのは、橋が三つ目の案内灯を過ぎてからだった。指の腹で押して、貼り直す。畳んだ左腕の位置を、一段深く直した。


 トバの作業床には、橋の足があった四角い跡だけが残っていた。現地の作業員が、その跡の向こうへ、台車を押して通った。何年も、回り道をしていた所だという。その通り道を空けた物が、いま、三隻の間に浮いている。


「小さい方を呼んで、正解だったね」ボウの船長の声が入った。


 タルクの返事は、短かった。「あそこへは、俺の船は入らん」


 ケイは声を出して笑った。笑ったら、肩から力が抜けた。


「今、笑ったね」ボウの船長が言った。


「咳だ」ケイは口元を、右の指で押さえた。


「咳にしては、長い」


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