第27話 次もここで診てもらう
看板の三行目で、医師の足が止まった。『急病の方は、すぐ船で運びます』
昨夜ケイが貼り文字で作った看板だった。字間は揃え、行の端まで測ってある。自信作だった。医師は年配の女で、鞄を床に置くと、その一行を指で軽く叩いた。
「これは、書かないでください。船の予定を持っているのは、あなたですか」
ケイは答えを探し、探すまでもなく、持っていないと気づいた。「持ってない。エマの船は、エマの予定で動く。今日この班が乗ってきた艇も、帰りの時刻が決まってる。でも、うちにはハチがある」
「患者は乗せられますか。担架は」
ハチの座席は一つで、荷台に人は載せられない。ケイは口を閉じた。医師は看板から指を離した。
「では、この一行は嘘になる日があります。来ない日に、来ると思って待つ人が出る。私たちは、来られない日があると、先に書いておく側です」
ヘラを使って、一字ずつ剥がした。貼り文字は、糊が強い。『すぐ』の二字は簡単に取れたが、『船』は角が最後まで粘って、爪の先で押さえながら起こした。剥がした跡には、艶の違う四角が残った。
壁は新しくない。診療に使うのは、接岸口に近い旧い事務室で、以前の机の日焼けが床に残っている。寝台を潰さずに、手洗いと換気と仕切り、横になれる台を整えた。看護師は若い男で、台を拭き終えるとすぐ、道具を置く場所を確かめに来た。
「この棚の上に、修理品を置かないでください」
「まだ何も置いてない」ケイは棚から一歩離れた。右手には、工具箱が提がっていた。
「工具箱を持って入ってきたので」ケイは箱を廊下へ出した。廊下に置いた箱は、扉の隙間から、部屋の中の様子を窺っているように見えた。
医師が、看板の高さを自分で決めた。ケイが打った釘より、指三本ぶん低い。立った大人にも、椅子に座った人にも読める位置だった。新しい貼り文字は、急ぐときの連絡先と、予約とは別だという一行だけになる。
「船の手配は、その場で確認する。そう書いておいて」『船の手配は、その場で確認します』そう貼ると、看板は前より地味になった。斜めに窓の光が当たる時刻、剥がした跡がうっすらと浮かんだ。『すぐ船で運びます』の字の形が、艶だけで残っている。
* * *
待っている人は、意外とよく喋った。杖をついた祖母が、最初の席に座っていた。診察台の脇の壁に、ケイが釘を打った掛け金がある。祖母はそれを見て、首を傾げた。
「そこ、杖を掛ける所かい」
「診察台に寝てても、手が届く」ケイは釘の頭を指で叩いた。
祖母は掛け金を使わず、杖の握りを椅子の背に掛けた。慣れた動きだった。「座ってから、手が届く所がいいんだよ。寝てから届いても、起きるのに困る」
「……そうか」ケイはドライバーを取り出し、掛け金を外した。使われない物を、壁に残しておくことはない。祖母は鼻を鳴らした。
窓口の前では、若い母親が勤務表を閉じて、順番を待っていた。子供の手を握っている。「前は、定期の診察でも丸一日出てたから」誰に言うでもなく、そう言った。それでも、誰かに聞かせたかったのだと分かった。「今日は仕事もあるけど、ここで済む分だけでも、戻れる時間が違う」
看護師が名前を呼ぶと、祖母は自分で杖を取り、診察室へ入っていった。空いた席に、子供と母親が座る。ケイは待合の椅子をもう一脚、食堂から運んできた。借りるとき、オトに、夕飯までに戻すよう言われた。医療が始まっても、椅子は増えない。
診察室の扉が閉まる音は、軽かった。夜勤の男が廊下の壁にもたれて、目を閉じたまま言った。
「朝は、扉を閉めてくれてる。でも、昼にも寝る日があるんだよな」
「昼も閉める。蝶番に、油を差しておく」
「音が出ないなら、そっちのほうが助かる」目は閉じたままだった。
* * *
診療班が食事をとる間に、エマへ通信をつないだ。診療班の道具と、定期の補充の薬の寸法を、先に言う。
「定期の補充なら、積める。保管の条件は、荷主から直接もらう」エマは、寸法の欄から目を離さなかった。「一つ、先に言っておく。うちの船は、予約している客を下ろして、救急には使えない」
「分かってる。看板は、書き直した」
エマの指が止まった。「書き直したって、何を」
「すぐ船で運びます、と書いてあった。俺が貼った。今日の朝、医者に言われて、全部剥がした」
「一字ずつ?」
「貼り文字だから、一字ずつ」
通信の向こうで、エマは黙った。乗員が呼ぶ声が、遠くで聞こえた。「……剥がした跡は、残るでしょう」
「艶だけ残ってる。光の向きによっては読める」
「そのまま残しておいて」エマは、寸法の欄に戻った。「乗員が、日程が合えば診てもらいたいって言ってる。住民以外も、予約できる?」
「船長の分もか」訊きながら、予約の欄を一つ空けた。
「まず、船の定期点検を遅らせないで」通信は、そこで切れた。
ケイは診療室の扉の前へ戻り、蝶番に油を差した。昼に眠る人のために、音の出ない扉が、もう一枚要った。
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